2011年11月26日土曜日

#38 北へ

今日は気合いを入れて早く起きよう!と思ったが、結局8時になってしまった。
出かける支度をし、いつもの手順を踏んでベースキャンプを後にする。

水曜日に通った、日頃市から釜石市唐丹に抜ける道に向かう。ウシさんは今日も放し飼いされており、美しいブナ林を抜けると、津波浸水想定区域の看板が・・・当然海は見えない。
徐々に周辺の景色が変わり始め、三陸鉄道の橋脚が見えるころにはすっかり被災地の景色となった。

45号線に上がり、釜石に向かう。市内を走るのは7月以来である。駐車枠があったので、クルマを止めた。
傷んだ建物と空き地と営業する店が交錯する商店街
2階まで浸水
信号が消えたままの交差点
向かい側の大手ハンバーガーショップがあった場所は、改築作業が進められていた。
引続き、釜石駅へ。
客待ちのタクシーが列をなす
釜石線が運行されているため、少し高いところにあるプラットホームには列車が止まっていた。構内の売店や立ち食い蕎麦屋さんも営業していた。やはり、列車が走っていると街は華やかになるような気がする。

釜石を後にし、45号線を北上し大槌へ。
この街は、津波による被災後、火災が発生したため、まだ焦げた跡のある建物が残っている。
そして、役場へ・・・
3時30分で止まったままの時計
役場の前で静かに手を合わせた。
報道でしか知りえていないが、この役場で起きた想像を絶する事態を思い出すだけで、とても切なくなる。同じ出来事を絶対に繰り返してはいけないと、決意を新たにした。

45号線に戻り、さらに北上する。
井上ひさし著の「吉里吉里人」の舞台にもなった吉里吉里の集落を抜ける。高校生の時、夏休みの宿題もやらないで読みふけったっけ・・・

波板の集落が見え始めたころに、「もしもしBOX」という駐車帯があったのでクルマを止める。
何もなければ、本当に美しい場所なんだが・・・
偶然、この場所で焚き物の木を切っている老父を見かける。いろいろと話をうかがった。
震災当日は大槌の中心街に近いところに出かけており、そのまま避難所に行ったこと。避難所では丸2日間水しかなかったこと。自宅は無事だったが、漁具や船がすべて流されてしまったこと。
海面から高さ20mほどあるこの場所まで津波がきたこと。巨大な消波ブロックが打ち上げられ、スギの木の根元に引っかかっていたこと。港には、沖出しに成功した船があったが、その後台風で被災してしまったこと・・・

また、地震のあと、津波が来ることは全く想定していなかったと話されていた。確かに、昭和8年の津波は生まれる前、昭和35年のチリ津波は、この方にとって被害はなかったに等しい。

「これから復興がどんどん進んでいくと思いますよ!」と話したところ、「数十年はかかっぺ!」と一笑にふされてしまった。
確かに、港湾施設や道路、復興というより復旧しなければならないところが無数にある。軽々しく発言してしまったことを後悔した。

そして、三重のボランティアメンバーになじみ深い山田町へ。14年前、青森県の大間からずっと海岸線をたどってきたとき、この街で「磯ラーメン」なるものを食べた記憶が鮮明に残っている。味は・・・
ちなみに、本州最西端は梅ヶ峠(山口県)
道の駅やまだ 千葉県香取市のメンバーが焼き芋配布中
遅めの昼ごはんはわかめラーメン
外につるしてあったしゃけの燻製。売り物です。
引続き、仮置場の様子を見に行く。
長期間がれきが燃え続けてしまったが、今は安定して管理されている。
ちなみに、ここは「船越」という地名だが、船が越えるの文字通り、津波が南北両方向から襲ってきた。

引続き45号線を北上する。山田町役場周辺は、がれきの撤去はほぼ完了しているものの、建物の基礎はまだ多数残っていた。
山田湾の向こうに見える市街地。
45号線から逸れ、大船渡の吉浜と同様に高台移転を成功させた、宮古市の姉吉に向かう。
距離はそれほど遠くはないが、狭く曲がりくねった道なので、常にステアリングをきっていないといけないので相当疲れる。

小さな集落を2つほど抜け、姉吉に着く。集落を抜けると、左手に大津波記念碑がある。
「此処より下に家を建てるな」と刻まれており、その言葉の通りここより下に集落はない。
姉吉の津波遡上高は、専門家の調査で40.5m
海岸の手間に駐車場があり、たくさんのクルマが止まっていた。そばに立っていた方から話しかけられる。
今日は海岸清掃が行われたそうで、100名以上のボランティアが参加されたとのこと。他にも、津波を見に来た人が、大慌てで山に駆け上り、マツの木によじ登って助かった話をうかがった。
姉吉の海岸
きれいに並べられた流木など
中央右に集落へとつながる道。当然集落は見えない。
相当上まで押し上げられた岩。単管バリカーとの差に注意。
先人の教えを守ることによって、人的被害を出さなかった姉吉。広く伝えていきたい。

北上しがてら通り過ぎた重茂(おもえ)の集落で津波石を見つけた。
明治では、津波のことを「海嘯(かいしょう)」と記している。
その脇にある昭和の碑
重茂漁協のすぐそばにある碑
入念に時間をかけていたら、宮古の中心部についたころにはすっかり日が傾いていた。
宿を八戸にとっていたので、ノンストップで向かう。

八戸の街は、とても大きかった。久々に走る3車線の道、どこを走っていいのかわからず少し動揺する。そして、都会の資本が多数進出しており、ロードサイドの店はどこでも見るものだった。
今日の宿、はちのへ温泉旅館に到着する。昭和っぽいテイストの和室だが、インターネットが使えるというギャップが面白い。

どこで食事にしようか悩んでいたところ、八食センターという施設が検索でヒットした。
施設内の厨(くりや)スタジアムに出向くと、3つの食堂が開いており、「八食市場寿司」という回転寿司屋を選択した。

最近はやりの100円寿司とは一線を画する雰囲気。ターンテーブルを流れるものから、地元産ぽい物を選ぶ。ソイ、イトウなどなど。
極めつけは、大間マグロの大トロ。一貫800円という代物。思わず手が出てしまった・・・職人さんがチェックされており、「色が悪いので、代えましょう」と。
結局、とても回転寿司とは思えない値段になってしまったが、満足感は相当高い。おすすめである。

帰路、本屋に立ち寄ったが、岩手の本屋では一番目立つところに作られている震災コーナーも、ここでは一歩下がったところに設けられていた。

宿に戻って温泉に入り、もろもろ作業を行ってから横になる。久しぶりの畳とふとんの組み合わせは、とても心地よかった。