2011年11月30日水曜日

#42 仲間との別れ

晩秋の雨で始まる。

冬至に近づいているので、朝も暗いような気がする。ちなみに日の出は6時半過ぎ。
東海新報の復興計画の記事に、ホテル福富のことが書かれていた。大船渡の街中に立地し、2階まで津波に浸水しているが、いち早く復活した。ホテルの前は地盤沈下の影響で満潮時には水浸しになるため、かさ上げ工事が行れている。
被災したホテルが再開したことに、否の意見もいくつか聞いた。しかし、経営者のインタビューでは、復活への強い意志、街を思う気持ちが強く表れていた。

大船渡市内では震災以降、慢性的にホテルが不足している。今の通勤距離は約20㎞。本来なら、もう少し市役所に近いところもあり得るかもしれないが、泊まれるところがいっぱいで、ない。林業の街住田での生活はとても快適だが。

午前、倉庫を所有する事業者からの相談、市民生活環境課のS係長とアスベストが使用されている建築物の解体について打ち合わせを行う。

昼休みが終わる間際、災害情報学会で懇意にしてもらっている、TBSのA氏が立ち寄ってくれた。
7月の調査でも一緒に大船渡に来ているので、知っている顔をみてホッとした。

午後、市内の最終処分場と仮置場の温度測定に出向く。
吉浜の仮置場では、選別を行うために別の仮置場への搬出が始まっていた。がれきの山は順調に量を減らしている。

車内で、T副技監とお互いが地元へ戻る日の話になった。仙台から名古屋行のフェリーがありますよ、と話をしたら、「え、知らなかった・・・」と感心された。
太平洋フェリーは苫小牧から仙台を経由して名古屋を結んでいると話したら、お持ちのiPhoneから吉田拓郎の「洛陽」を流してくれた。

私とT副技監は12/22、板橋区のC氏は12/16、チーム大阪市は12/21、いなべ市のS氏は12/7。
他のメンバーは確認していないが、12月最終週の建設課は静かになりそうな気がする。

引続き、石浜へ。
ここはまだ搬出が始まっておらず、少量づつ運び込みが行われている。T副技監が温度測定をしているタイミングで、4tダンプが入ってきた。ドライバーと少し話をし、運搬時において定められた車両運行ルールの徹底について依頼があった。のち、末崎北の現場事務所に立ち寄る。
事務所でドライバーからの依頼内容の確認を行ったが、ルールを準拠していなかったのは、がれき撤去と無関係の車両だった。しかし、ルールの徹底が可能とのことで、関係者への連絡を依頼した。

ここには、チーム大分市3名のうち2名が常駐している。チーム大分市は末崎での現場管理業務を今日で終え、明日より水産課での業務を担うため、越喜来の三陸支所に異動となる。
派遣されている職員やチームには各々特徴があり、チーム大分市では毎日、新聞の切り抜きをしていた。それぞれのオリジナリティが生かされている。

引続き、盛地区で管理している仮置場へ。派遣初日に確認した時はクルマを止めるスペースがないくらい、てんこもりになっていたが、大きくその量を減らしている。確実に次のステージに進みつつある。
今日はN課長補佐が不在のため、夕方のミーティングはK係長の進行で行われた。
今日の話題の中心は、11/30をもって、2市4名がこの職場から離れること。

前述のチーム大分市の離任あいさつで、メンバーのTさんの言葉が印象的だった。
「支援に来たつもりが、O主任にプライベートまでお世話になってしまい、本当に感謝している。」
支えあうことが、円滑に業務を進めるカギになっている。
チーム大分市は、末崎地区周辺の道路舗装の補修まで行っており、素晴らしいチームだった。
そして、土木係のS主任。北上市から派遣された橋梁のエキスパートは、G係長からもっといてほしかったと言われるくらいの活躍をされていた。冗談交じりで、担当された橋を「S橋」と名付けたら?と言ってしまった・・・

今日で派遣期間の2/3が経過した。果たして私自身はこの職場から惜しまれるような人材なのだろうか?少し考え込んでしまった・・・
今までは少し肩に力が入っていたような気がする。無理に何かをしようとしても、何もできないし、誰のためにもならないだろう。残り3週間、三重にいる時と同じ気持ちで仕事に臨めれば、と思う。

帰宅直前、課の何人かのメンバーと立ち話になった。服の話。職場のメンバーの話。歳の話。プライベートの話・・・残された時間が少なくなってきた。もう少し打ち解けられる努力をしないと。
そして、大阪市のTさんから、石碑の写真を見せてもらったり、Iさんと職場のことを少しお話したり・・・派遣職員の中では少しだけ古株になったのかな?

帰路、コンビニに寄ったのち、昨日お休みだった龍華に出向く。
「水上さんっ!」と声をかけられ振り返ると、K係長一家が!今日は結婚記念日で、家族で食事だそう。こっそりプレゼントをしておいた。余計なお世話かな・・・

晩御飯は、相変わらず野菜不足のカニチャーハン。美味!
帰宅してから、朝食の調達を忘れたことに気付いた・・・もう買いに行く気力はない。

2011年11月29日火曜日

#41 ノウハウ

なんなんだろう、この春のような暖かさ。

いつものように朝御飯のパンをたべ、東海新報を読み、ベースキャンプを出発する。
それにしても、ちょっと怖いくらい暖かい。上着もいらない。
今日の市役所屋上非ライブカメラは南向き。靄ってます。
S課長補佐に契約内容の確認などを行いながら、書類作成を進める。

ところで、昨日見学した二次選別場など、なぜ被災地でのがれき処理がこんなにシステマチックに進んでいるのだろう。ヒントは「県境事案」にありそうだ。

岩手県と青森県の県境に不法投棄された産業廃棄物を、全量撤去と処理をめざして現在事業が進められている。推定量は32万トン以上で、現地での掘削や選別、運搬、そして処分が行われており、ここで得られたノウハウが災害廃棄物処理にも活用されている。

今まで蓄積されてきた経験に工夫を組み合わせると、それは災害現場など、かつて経験したことのない事態においての有効な解決策となりうる。
ちなみに、岩手県災害廃棄物処理詳細計画における大船渡市のがれき総量は推定83万7千トン。

午後は、タイヤ処理事業者に訪問し、打ち合わせを行った後、二次選別場で調査と打合せ。その後、キタニの現場事務所に行く。
船はもう跡形もなく、スクリューの運び出しが行われていた。
キタニの現場では、監事会社の現場代理人S氏と、市役所のF主査、そして宇部市から派遣されているS氏の3名が仕切っている。3人のコミュニケーションは、年長の現場代理人S氏が親方で、F主査やS氏が相談をしているような感じだ。やはり、現場の管理には建設業のベテラン技術者に一日の長がある。実戦のノウハウが伝授されているように思った。

ここには、発注者と受託者、契約書の上での甲と乙といったものを超越した、協調がある。どちらが上とか、お金を出す側もらう側といったつまらない感情は存在していない。あるのは、ともに大船渡の復興に向かっていくという強い志である。

帰庁後、総務課のS課長補佐がお見えになり、N課長補佐やT副技監を含めて、来年度の体制などの話になる。明後日からは12月。そろそろ来年度の話が聞こえてくる時期になってきた。

赤崎の現場から戻ってこられた大阪市のT氏に、昼休みなどの時間があるときに、赤崎小学校の横にある石碑に、津波か海嘯の文字があるか見てもらえないか依頼した。自分の知的欲求だけでなく、少しでも過去の教訓に触れてもらえれば・・・

夕方のミーティングでは、K係長から受け持ち現場の事業進捗について報告があった。担当されている吉浜地区は、昭和三陸津波以降に高台移転を実現しており、今回もほとんど被害がなかった地域である。今後、仮置場からの撤去完了のモデルケースになるような気がする。

クリーニングを取りに行き、晩御飯は先日いった「龍華」を訪ねようと思ったら、今日はお休み。前にも訪問した「そば処まるぜん」が開いていたので、天丼を注文する。
晩秋なのに寒くない不思議な夜。しかし、明日は冬型になるらしい。

2011年11月28日月曜日

#40 つながりはじめる

昨晩なかなか寝付けたなかったので、少しけだるい。

いつもより少しだけ早く出発する。外は不気味なくらい暖かい。11月下旬の東北ってこんなもんなのだろうか・・・
今日の市役所屋上非ライブカメラは西向き。曇りだけど暖か。
板橋区のCさんが1週間の帰還を終え、今日から復帰。たぶん所属でも大船渡ネタで盛り上がったはずだ。
そして、先週の続きの業務を行う。書類に貼り付けた付箋の部分を、臨時職員のOさんにコピーを頼むのだが、あまりの量に気が引ける・・・

午後、T副技監にお願いし、前からきちんと確認したいと思っていた永浜・山口の二次選別場に出向く。
先に別の打ち合わせをしていたN課長補佐を見つけるが、そのあまりに広大な敷地に、距離感をつかみかねる。

二次選別場では、各地区の仮置場で、木くず、木質系混合物、ガラ系混合物に荒選別したものを、資源化するためにより細かく分別する。特に、木質系混合物の分別に注目した。ちょうど休憩時間だったのでじっくり見ることができた。

運び込まれたがれきは、まず敷鉄板の上に展開され、重機と人手によって仕分けが行われる。特に、長いものや家電のコード、大きめのブラスチックなどが取り除かれる。
その後、トロンメルと呼ばれる回転分離機に投入され、土とその他に分けられ、磁選機にかけられてから手選別場に。がれきの移動はベルトコンベアで行われる。

手選別場では、複数の女性が分別作業を実施している。ここで、再度石や金属、衣類などが取り除かれ、再度ベルトコンベア上の磁選機を通過し、振動篩(ふるい)を通過して、木くずと土砂類に分別される。類似の作業が異なる手法で繰り返し行われることによって、資源としての利用価値が高まる。

木くずは一旦ヤードに仮置きされ、台船に載せられて太平洋セメントへ向かう。二次選別場から太平洋セメントまでは目と鼻の先だが、すべて自動車で運搬を行うと、沿線にある赤崎中学校、赤崎小学校の仮置場へ向かう車両と交錯し、おそらく大渋滞となる。市民生活の妨げにならない配慮もなされている。

木くずのラインでは、巨大なチッパーなどが活躍しており、他にも0.7m3クラスのバックホウやホイールローダーなどが多数稼動している。
岸壁には、真っ二つになったコンテナが保管されており、改めて津波の破壊力に驚愕した。

二次選別場では、働いているのも地元の人、動いているダンプトラックも地元のものと、地域で経済が回っていくような取組が行われている。
また、外周を囲む仮囲いには、地元小学生の書いた絵が掲げられている。
引続き、脱塩施設の確認に向かう。巨大な7台の洗濯機が回転している。
排水処理プラントでは、T副技監が解説してくれるので、前回訪問時よりもその仕組みが理解しやすかった。泥水だったものが、放流段階では透き通っていたのには驚いた。

職場に戻ると、Oさんが作業完了したと伝えてくれた。驚速!
夕方のミーティングでは、課長が不在のため補佐が代わりに少し話をする。末崎担当のO主任と大分市のTさんが、登米マラソンに参加したと話をされ、お二人の結果を聞き出すが「完走・・・」とだけしか伝えられなかった。
そして、大阪市から派遣されているSさん(二人ともSさん)が、今日で最後の勤務となる。仮置場の監督さんの中では一番近しかったので、残念である。新市長の元で頑張ってください!と伝える。

月曜日の定例行事、洗濯に向かう。今日は係の人が見えたので、暖房の設定温度をなんとかしてください・・・と懇願する。経営者に伝えると回答をもらった。

洗濯の間、1943年に刊行された「津浪と村」の再版を読む。第一章の冒頭にあまりにもよい文章が。以下に引用する。

『我々は津浪直後に、惨害記録と哀話のみ綴っているべきではない。暗い話ではなく、根強く再興してゆく日本人の力こそ、次には被害を少しでも軽減するために、細心の注意を怠らぬように導いてゆくのが我々のなすべきことと信じている。』

洗濯が出来上がったので少ししか読めなかった。盛のクリーニング店とサン・リアに寄って帰宅する。晩御飯は、半額のお稲荷さんと納豆巻きとなった。

ベースキャンプで食事をしていると、内線電話がなった。私宛の来客だ!
杣遊会のメンバーで、役場職員のMさんが訪問してくださった。杣遊会の活動や、住田の林業のことなど、いろいろお話をさせていただいた。実は土曜日もご訪問いただいていたそうで・・・
12/3に開催される詩の朗読会にお誘いいただいた。そして、4日の杣遊会活動にも。そして、津波で流出した木を活用したいというご希望には、すこし協力できそうだ。
来年住田で開催予定のビッグ・イベントについても教えてもらった。是が非でも参加したい!
住田テレビのスタジオに飾られる予定のリス
今、第3の故郷芸濃と第4の故郷気仙をつなぐ取組を、芸濃のYさんと画策している。
1か月が過ぎ、様々な方々とつながりはじめているような気がしてきた。

2011年11月27日日曜日

#39 違い

時間を有効に活用したいという願いはかなわず、半分目覚めながらもうだうだしていたら8時半になっていた。

顔を洗ってから、朝食をどうしようか考える。久々の朝マックで・・・と思ったが、やっぱりそれでは物足りない。せんべい汁を食べようと、中央卸売市場に向かう。今日は朝からとても暖かい。

駐車場を出ようとしたとき、横からクルマが近づいてきたので、道を譲る。前のクルマが道路を右折した直後、「ボコッ」という音がした。うわ~、なんか踏んだかな?と思ったら、軽自動車が接触しており、進行方向と逆向きになっていた。あの時譲らなかったら、自分が・・・

中央卸売市場は本日公休日という看板が出ており、急きょ中止し、またしても八食センターに向かう。
朝からにぎわっている
せんべい汁
せんべい汁は、八戸のB級グルメで、ひっつみの△の代わりに南部せんべいが入っている。ちなみに、汁専用のせんべいも売っている。広大なセンター内を物色し、おみやげや実家用のリンゴなどを買い求める。
大船渡にも、観光客が戻ってきてほしい・・・

その後、八戸港へ向かう。市内では特に目立った被害は見当たらなかった。
苫小牧行フェリー
港湾施設にもほとんど被害は見られない
地盤も沈下していない
そのまま海岸線にそって、前から気になっていた鮫駅へ。
名前の通り、鮫の置物が!
鮫駅のそばにある蕪嶋神社へ。
勝手に日本のモンサンミシェルと名付けました。満潮でもいけます。
周囲は自然公園の特別地域
立派な社殿
昭和の津波記念碑。茶色の板は船のスクリュー。
社務所で神主さんの奥さんに話を聞いた。
津波襲来時、神社周辺はすべて水面下に沈んだこと。がれき撤去は市職員をはじめとする300人が片付けたこと。自分の安否を気遣った連絡がたくさんあったこと・・・
大船渡で働いていると告げると、神主さんの友人の奥さんがいまだに行方不明であると告げられた。最近、一斉捜索が改めて行われたが・・・

引続き、海岸線をたどる。途中、展望台があった。
日本離れした風景
緩やかにアップダウンする道を走り、階上(はしかみ)町へ。今流行の「サバップル」を入手すべく、道の駅に向かう。
土産物コーナーに行くと、サバップルの張り紙はあるものの、モノが見当たらない。後で店員さんに聞こうと思い、うろうろしていると、超絶不気味な携帯ストラップを見つけた。一つ入手したので、ほしい方に差し上げたい。

会計の際にサバップルのことを尋ねると、なんと本日は売り切れ!
仕方ないので、昼ご飯に地元特産の「階上そば」を選ぶ。
ちょっとのびてたかも
断熱ボードで作られた犬小屋が売ってました
サバップル製造元を訪ねてみたが、本日完売の張り紙・・・
違うものを買い求めようと店内に入ったら、なんとキャンセルがでて1つ余ってる!
噂のサバップル
明日、農林センターに持っていく予定なので、後で感想を聞いてみよう。

道の駅で観光ガイドを入手したので、まずは津波記念碑へ。
今までのとまったくイメージが異なる
昭和の津波を記念したもので、東京朝日新聞の義援金で制作されたもの。「地震海鳴りほら津浪」という標語が記されている。
灯台をイメージしたフォルムで、土台の水色の部分は津波をイメージしたものと思われる。一部塗装がはがれているものの、垢抜けたデザインは街のシンボルにもなりうる。津波を押しのけ、新しい未来を築くという雰囲気がする。

南下すると・・・
大船渡ではなく小舟戸(こみなと)
そして、赤石大明神へ
小さくても、地域住民の愛情を感じます
津波石。文字はほとんど読めなかった。
大明神の由来になっている赤(べご)石
そして、どうしても見たかった県堺石。青森と岩手の境。
海版 「堺」という字が彫ってある
ぽつんと置いてある
この橋を渡ると・・・岩手県
その後、岩手県最北、洋野町の中心部種市に向かう。余談だが、洋野町の町長は水上さんである。岩手ではちょくちょく見かける苗字らしい。
そびえたつ防潮堤の陸側に建つ昭和三陸津波の記念碑
ものすごく立派な洋野町役場を通り過ぎ、少し低いところに出るが、特に建物の被害があったような雰囲気はなかった。強大な防潮堤が、洋野町種市を守ったようだ。
種市を防御した巨大防潮堤
ほぼ満潮時に撮影した。下がっていないのはうらやましい。
その後、陸中八木駅へ向かう。鋭意復旧作業中のようで、そう遠くない将来列車が走る姿を拝めそうだ。
海が間近に迫る駅
そして、日暮れが押し迫った久慈へ。
市役所も、不思議な形をしたアンバーホールも、何もなかったように平常と変わらない姿を見せていた。しかし、港に出向くと、防波堤に近い建物は多数破壊されていた。
港には多くの釣り人たちが
港のはずれから、海岸線をたどる道へと進む。すでに辺りは薄暗くなってきた。
WRCのモンテカルロを彷彿させる、岩と崖に挟まれた、曲がりくねった道を行く。ブラインドコーナーが多く、やや危険。
30分ほど走ると野田村に到着した。もう何も見えなくなってしまった。しかし、ぼんやりと被災している様子やがれきの山が見えた。
途中、岩泉町にある三陸鉄道の小本駅に寄る。クリスマスのイルミネーションがとてもきれいだった。
カーナビでは、宮古から106号線を経由するよう案内したので、盛岡方面へと向かう。
途中にあった湯ったり館で一風呂あび、またしてもひっつみを食べる。
あ~、横になって寝たいな~と思ったが、まだこの先90㎞もある・・・
遠野に抜ける峠道はタイト+シカ。
そして、遠野の街にでて、漆黒のイーハトーブを住田に向かう。

岩手の沿岸北部と南部の違いを考えた。同じように津波被害を受けているが、決定的に違うのは地盤沈下の有無。
あとで国土地理院のホームページに掲載されている地殻変動量(暫定)を見ると、北部ではほとんど変動がないものの、南部、大船渡では80cm近く沈降している。実際、沈降が原因で岸壁や街の低いところでは、すぐ水浸しになってしまうし、がれき撤去や今後の復興に大きな支障となる。

国土交通省の試算では、1.2mと一番沈降した牡鹿半島では、元の高さにもどるまで9900億年かかるらしい。地球ができてからよりも長い時間が・・・

2011年11月26日土曜日

#38 北へ

今日は気合いを入れて早く起きよう!と思ったが、結局8時になってしまった。
出かける支度をし、いつもの手順を踏んでベースキャンプを後にする。

水曜日に通った、日頃市から釜石市唐丹に抜ける道に向かう。ウシさんは今日も放し飼いされており、美しいブナ林を抜けると、津波浸水想定区域の看板が・・・当然海は見えない。
徐々に周辺の景色が変わり始め、三陸鉄道の橋脚が見えるころにはすっかり被災地の景色となった。

45号線に上がり、釜石に向かう。市内を走るのは7月以来である。駐車枠があったので、クルマを止めた。
傷んだ建物と空き地と営業する店が交錯する商店街
2階まで浸水
信号が消えたままの交差点
向かい側の大手ハンバーガーショップがあった場所は、改築作業が進められていた。
引続き、釜石駅へ。
客待ちのタクシーが列をなす
釜石線が運行されているため、少し高いところにあるプラットホームには列車が止まっていた。構内の売店や立ち食い蕎麦屋さんも営業していた。やはり、列車が走っていると街は華やかになるような気がする。

釜石を後にし、45号線を北上し大槌へ。
この街は、津波による被災後、火災が発生したため、まだ焦げた跡のある建物が残っている。
そして、役場へ・・・
3時30分で止まったままの時計
役場の前で静かに手を合わせた。
報道でしか知りえていないが、この役場で起きた想像を絶する事態を思い出すだけで、とても切なくなる。同じ出来事を絶対に繰り返してはいけないと、決意を新たにした。

45号線に戻り、さらに北上する。
井上ひさし著の「吉里吉里人」の舞台にもなった吉里吉里の集落を抜ける。高校生の時、夏休みの宿題もやらないで読みふけったっけ・・・

波板の集落が見え始めたころに、「もしもしBOX」という駐車帯があったのでクルマを止める。
何もなければ、本当に美しい場所なんだが・・・
偶然、この場所で焚き物の木を切っている老父を見かける。いろいろと話をうかがった。
震災当日は大槌の中心街に近いところに出かけており、そのまま避難所に行ったこと。避難所では丸2日間水しかなかったこと。自宅は無事だったが、漁具や船がすべて流されてしまったこと。
海面から高さ20mほどあるこの場所まで津波がきたこと。巨大な消波ブロックが打ち上げられ、スギの木の根元に引っかかっていたこと。港には、沖出しに成功した船があったが、その後台風で被災してしまったこと・・・

また、地震のあと、津波が来ることは全く想定していなかったと話されていた。確かに、昭和8年の津波は生まれる前、昭和35年のチリ津波は、この方にとって被害はなかったに等しい。

「これから復興がどんどん進んでいくと思いますよ!」と話したところ、「数十年はかかっぺ!」と一笑にふされてしまった。
確かに、港湾施設や道路、復興というより復旧しなければならないところが無数にある。軽々しく発言してしまったことを後悔した。

そして、三重のボランティアメンバーになじみ深い山田町へ。14年前、青森県の大間からずっと海岸線をたどってきたとき、この街で「磯ラーメン」なるものを食べた記憶が鮮明に残っている。味は・・・
ちなみに、本州最西端は梅ヶ峠(山口県)
道の駅やまだ 千葉県香取市のメンバーが焼き芋配布中
遅めの昼ごはんはわかめラーメン
外につるしてあったしゃけの燻製。売り物です。
引続き、仮置場の様子を見に行く。
長期間がれきが燃え続けてしまったが、今は安定して管理されている。
ちなみに、ここは「船越」という地名だが、船が越えるの文字通り、津波が南北両方向から襲ってきた。

引続き45号線を北上する。山田町役場周辺は、がれきの撤去はほぼ完了しているものの、建物の基礎はまだ多数残っていた。
山田湾の向こうに見える市街地。
45号線から逸れ、大船渡の吉浜と同様に高台移転を成功させた、宮古市の姉吉に向かう。
距離はそれほど遠くはないが、狭く曲がりくねった道なので、常にステアリングをきっていないといけないので相当疲れる。

小さな集落を2つほど抜け、姉吉に着く。集落を抜けると、左手に大津波記念碑がある。
「此処より下に家を建てるな」と刻まれており、その言葉の通りここより下に集落はない。
姉吉の津波遡上高は、専門家の調査で40.5m
海岸の手間に駐車場があり、たくさんのクルマが止まっていた。そばに立っていた方から話しかけられる。
今日は海岸清掃が行われたそうで、100名以上のボランティアが参加されたとのこと。他にも、津波を見に来た人が、大慌てで山に駆け上り、マツの木によじ登って助かった話をうかがった。
姉吉の海岸
きれいに並べられた流木など
中央右に集落へとつながる道。当然集落は見えない。
相当上まで押し上げられた岩。単管バリカーとの差に注意。
先人の教えを守ることによって、人的被害を出さなかった姉吉。広く伝えていきたい。

北上しがてら通り過ぎた重茂(おもえ)の集落で津波石を見つけた。
明治では、津波のことを「海嘯(かいしょう)」と記している。
その脇にある昭和の碑
重茂漁協のすぐそばにある碑
入念に時間をかけていたら、宮古の中心部についたころにはすっかり日が傾いていた。
宿を八戸にとっていたので、ノンストップで向かう。

八戸の街は、とても大きかった。久々に走る3車線の道、どこを走っていいのかわからず少し動揺する。そして、都会の資本が多数進出しており、ロードサイドの店はどこでも見るものだった。
今日の宿、はちのへ温泉旅館に到着する。昭和っぽいテイストの和室だが、インターネットが使えるというギャップが面白い。

どこで食事にしようか悩んでいたところ、八食センターという施設が検索でヒットした。
施設内の厨(くりや)スタジアムに出向くと、3つの食堂が開いており、「八食市場寿司」という回転寿司屋を選択した。

最近はやりの100円寿司とは一線を画する雰囲気。ターンテーブルを流れるものから、地元産ぽい物を選ぶ。ソイ、イトウなどなど。
極めつけは、大間マグロの大トロ。一貫800円という代物。思わず手が出てしまった・・・職人さんがチェックされており、「色が悪いので、代えましょう」と。
結局、とても回転寿司とは思えない値段になってしまったが、満足感は相当高い。おすすめである。

帰路、本屋に立ち寄ったが、岩手の本屋では一番目立つところに作られている震災コーナーも、ここでは一歩下がったところに設けられていた。

宿に戻って温泉に入り、もろもろ作業を行ってから横になる。久しぶりの畳とふとんの組み合わせは、とても心地よかった。