2011年11月3日木曜日

#15 Crossover Ofunato Vol.2

今日は文化の日。

月から金曜日にセットしてある目覚ましが、6時台にけたたましく鳴ってしまい、ムッとしながら停止ボタンを押す。
最近は天候が安定しており、暖かな日々が続いている。8時過ぎくらいにおもむろに起床し、いつものように出かける準備をする。

先日、岩手開発鉄道のことをネットで探っていたら、1992年までは旅客営業をしていたことが判明。破格の運賃で、小児半額で5円単位というすごい状態。
旅客運送時代の痕跡を探るために、まずは終点の岩手石橋駅に向かう。今日は本気だから、デジイチ(デジタル一眼レフ)も持っていく。

通勤途中、ずっと気になっていた山の写真を撮る。
針広まだら林
針葉樹の中を、広葉樹の道が走っている。詳しくは不明だが、所有者の境界を明確にしているのか、はたまた植栽に不向きな場所を残したのか、薪炭用なのか・・・。

いつもの通勤経路から脇にそれ、しばらくいくと岩手石橋駅に着く。近鉄大阪線にも同名の駅があったな・・・
岩手石橋駅
旅客営業が終了してから20年がたつので、廃墟と化していると思ったが、今も現役で使われているよう。駅というより信号所といったたたずまいで、ぽつんとそこにあった。

続いて、日頃市(ひころいち)駅に向かう。カーナビにはきちんと表示されており、国道から曲がってすぐのところに立派な駅舎があった。
この駅には交換設備(行き違い可能)で、今にもお客さんを乗せた列車がやってきそうな雰囲気である。夏にトロッコ列車でも走っていれば、鉄ヲタだけでなく家族連れでもにぎわいそうだ。
日頃市駅
ちなみに、岩手開発鉄道は、セメント会社に石灰石を運ぶ貨物専用なので、(たぶん)土日祝日はお休み。この日は走行中の列車を見ることはできなかった。
そのあと、長安寺駅にも寄る。ついでに猪川(いかわ)駅にも寄ろうと思ったが、場所がわからなかったので、盛駅に向かう。

盛駅は市役所から徒歩圏内にあり、JRと三陸鉄道の駅舎が隣り合っている。
三陸鉄道の駅舎は、「ふれあい待合室」として利用されており、列車が走っていなくて、お客さんでにぎわっている。片隅に支援物資の配布コーナーがあり、家族連れの若い夫婦が必要なアイテムを手にしていた。
歓迎!ふれあい待合室
駅前には、「三陸鉄道ここに始まる」と刻まれた石碑がある。
近いうちに、また始まる日が来ることを心待ちにしている。
構内に留置されているホッパ車を見ることができたが、肝心の機関車がいないので、カメリアホールで菊の展示会をチラ見して、いったん駅を後にする。

茶屋前通りを南に向かっていると、ビルに青い看板がついているのを見かけた。
昭和35年のチリ地震津波の高さを表している表示。
地球の反対側で起きた地震による津波で、特に被害の大きかったのが大船渡。これをきっかけに湾口防波堤が建設された。
ちなみにこのビル、2階のガラスが水圧かがれきの衝突かわからないが、とにかく津波の影響で割れていた。

赤崎に近づいたころ、ホッパ車に掲げられたメッセージを撮影するのを忘れたことに気づき、また盛駅に戻る。
途中、サンデーというイオン系のホームセンターに寄る。三重では見かけない店舗だ。
あったか系肌着を購入。しかし、床のタイルがすべてはがれている。ここも浸水地域だ。


盛駅の東口に着く。片隅に岩手開発鉄道の盛駅がぽつんと。テイストは最高である。
東西連絡の自由通路から、盛駅構内が俯瞰できる。列車が走っていれば、とても楽しい場所だと思う。
ホッパ車の側面には、「がんばっぺ」や、「太平洋の復興とともに」といった応援メッセージが!
このあと赤崎駅に出向くも、三重から来た鉄ヲタの襲撃に備えるためか、機関車を見かけることはなかった。クルマを赤崎方面に走らせる。
三陸鉄道陸前赤崎駅前は、残念ながら津波がすべてをさらってしまった。
その脇にあるがれきの仮置場、赤崎小学校では特徴的な光景を目にする。ほとんどの重機が、高台に上げられている。
今日は休業日なので、津波による流出を防ぐためだとのこと。
いつもは綾里方面へ曲がる道を、今日はまっすぐ海岸伝いに進む。
しばらくすると蛸ノ浦の集落につき、カーブを曲がった先に津波記念碑を見つける。
一番手前が津波記念碑
碑文には、昭和の津波による犠牲者の数、地震と津波、また高台避難についての教訓が刻まれている。
引続き漁港に出る。入口に碁石海岸観光船の「かえで」が、痛々しい姿をさらしていた。
しかし、その奥には木造船「気仙丸」が!
気仙杉+気仙の船大工のコラボ作品、津波で流失してしまうこともなく、港に係留されている。
これもまた、復興のシンボルになりうる!
そのまま、プレイランド尾崎岬へ。バーベキューに興じる歓声が聞こえてきた。
広場にはなぜか大分県の補助金で作られたと書かれているベンチが。
支援物資?側面の犬がかわいい。
隣の長崎の集落では、漁港が海水に洗われはじめていた。干潮に向かっているはずなんだが・・・
しかし、この集落は地形的要因からか、ほとんどの住居が高いところに設けられており、一見すると流失等の被害がなかったように見受けられた。
集落にいた全員が無事だった合足(あったり)の集落を抜け、綾里(りょうり)に向かう。難読地名。
綾織姫という姥が住んでいたといういわれのあるこの集落で、どうしても見たいものがあった。綾里川をさかのぼる魚である。
T副技監が、足にあたると言っていたが、どれくらいいるのだろうか・・・

川沿いの道にクルマを止めると、すでにバシャバシャ音がする。
ああっ!マスかしゃけかわからないけど、デカい魚がいる!
偏光フィルターがほしい・・・
対岸を歩く老人から、何をしているのか声をかけられる。魚を見に来たと告げると、
「橋の下にいっぱいいんべ」
と教えられ、三重から来たと言って驚いてもらいつつ、橋のたもとへ。
うぎゃー!めっちゃおるし!!!!
がれきが少し残るこの川に、また魚が帰ってくる。魚たちにとって、震災は関係ないのかも。
しかし、こうやって戻ってきてくれることは本当にうれしい。

引続き、銀河連邦の一角を占めるサンリクオオフナト共和国の由縁でもある、気象庁大気環境観測所(旧気象ロケット観測所)に向かう。

湾に面して作られた高い堤防には、津波からの避難を呼びかける看板がついていた。
津波は、軽々とこの堤防を乗り越えてきた。

途中、綾里の街を俯瞰できる場所があった。
中央に見える綾里川の水門から奥が、浸水地域である。

相当長い未舗装の林道を抜けると、突然2車線の舗装路に出た。もちろん対向車はゼロ。
しばらく行くと観測所の門が見えたが、「土日祝の見学はできません」とある・・・

そして、再度未舗装の林道を走る。さっきの道より少し狭くなっており、バシバシと枝や葉っぱが当たる。時折、素晴らしい景色が垣間見える。

しばらく走ると、公衆トイレが見えてきた。駐車場(といっても、なんとなく広場)にクルマを止めると、展望園地の案内がある。
徒歩20分・・・最近運動してないし、行かないと後悔しそうだから、久しぶりにちょこっと山歩きしてみることにする。しかし、先日街の道具屋でかった「くますず」を装備していない。う~ん・・・あっ!
「あいぽっどたっち」という装備がある!これで音楽ならせばOK!

ドラクエでいうならば、
----------------
E ぬののふく
E あいぽっどたっち
----------------
という、武器なしのヤバい状況で出発する。
クマ避けにiPodtouchを使うヤツはなかなかお目にかかれないはずである。

県が管理している施設のようだが、歩道が草ぼうぼうなのは、今は全体の事業のなかでプライオリティが低いのだろう。震災の影響だから仕方のないことである。
絶景を期待して、ひたすら上る。周辺は放牧場でもあるらしく、乾燥したウシさんの落し物があちこちにある。

汗だくになって上って着いた先は・・・すこし期待外れだった。
綾里岬園地からの眺め
秋のやわらかな日差しの中、Tシャツ1枚でしばらくくつろぐ。赤とんぼが何度も足に止まる。
そして、ヒルもヘビもいなくて快適と思っていたら、ダニがくっついていた。ヤバい!東北侮りがたし!東北の夜は早いので、下山(?)する。.
いい感じの遊歩道
途中、下りでしかわからない絶景ポイントに到達。
既に日は傾きかけていたが、穏やかな太平洋を見つめる。普段はこんなに穏やかなのに・・・

また未舗装の林道を延々と走り、綾里に戻る。今は仮置場になっている綾里海水浴場へ。
今は荒涼としているが、ここに歓声が戻る日が必ずやってくる。
周囲を見渡すと、津波の被害を受けた人工林が。
海水のかぶったところのスギは、葉が赤茶色になってしまっている。

もう一つ、皆さんに伝えたいポイントがある。明治三陸津波で、遡上高38.2mを記録した場所である。
よく見かける青い看板には、38.2mの文字が。
近くには石碑があり、教訓を後世に伝えようとしている。
しかし、この場所は両側から津波が来たとされているが、どっちを見ても海は見えない。

今日は東京からN先生が来訪されるので、このあたりで戻ることにする。
途中、舗装がはがれたところや、片側交互通行の場所に出くわす。

一旦ベースキャンプに戻り、N先生と合流、前から気になっていた「居酒屋いなかっぺ」に出向く。
大船渡から45号線を高田に向かってしばらく行くと大きな提灯のかかった店がある。コンテナハウスの居酒屋。

カキフライやさんまの塩焼きなどを食べ、先生から「津浪と村」という本のことや、山下文夫先生の話を伺う。近いうちに読みたい。
〆は復興焼きそばで、代行運転手さんをお願いする。

運転手さんは赤崎の漁師さんで、船を沖出ししようとしていた実兄を津波でなくされたこと、若いころ恋人を訪ねて三重に来たことがあることなど、いろんな話を伺った。三重では原発や放射能に関することを除いて、震災の情報が流れることは少なくなったが、ここではまだ日常の会話として語られる。

ベースキャンプでの別れ際、なにか「さようなら」を意味する言葉をおっしゃったような気がしたが、N先生も私もきちんと聞き取れていなかった。謎が謎を呼んで次回に続く。