無理やり2度寝を敢行するも、今日は無理・・・
お湯を沸かしてコーヒーを飲み、朝食をとってから出掛ける。今日もとても暖かい朝である。
こちらに来てから興味の出てきた気仙大工のことを知るために、高田の小友町にある気仙大工・左官伝承館に行く。
寺社仏閣の建築などにもその技術を顕示した、この地方発祥の出稼ぎを主とした大工集団である。
気仙大工の技が凝集された立屋棟 |
気仙大工の仕事の特徴や建物内部について、丁寧に説明いただく。
縁との境にあるギャップ。葬儀などの際、縁のある人は畳側に上がることができる。 |
火打ち梁(といわないそうだが)と「かまどの神」 |
神棚のある部屋。飾られているのは「気仙丸」の模型 |
精密な細工のなされた欄間。四隅の窓はねずみが通過するためのもの。 |
書院の明かり窓に施された細工。見る角度によって表情を変える。 |
気仙大工の技の特徴、扇張り。 |
軒下の「せがい造り」。この建物は四方せがい。 |
囲炉裏。上にはダイコンと柿が置かれている。 |
資料庫の木札がかけられた蔵。 |
地震により、壁が若干損傷を受け、蔵の瓦も一部脱落したそうだが、見ての通り建物はびくともしていない。
説明員の方と、少し話をする。
管理棟の木製サッシが不愉快な音をたてて恐ろしかったこと。芝生の広場に避難していたら、津波が押し寄せた高田の街から土煙が上がったこと。家族は全員無事だったこと・・・
そして、高台にあって普段は比較的静かなこの場所に、難を逃れる方がたくさん訪れたこと。津波で散逸した品の保管庫があり、訪問者に改めてこの場所の魅力を感じてもらえたこと・・・
12月10日には、神戸から未来を照らす希望の灯が届けられることになる。改めて訪問したい。
その後、12:30に間に合うようにサン・リアに向かう。今日はLAWBLOWのインストア・ライブがある。
10分ほど前に到着すると、会場には人だかりができていた。
初見から1週間、車内でヘビー・ローテーション化しているので、「家に帰ろう」は口ずさめるようになった。
←STOCK $-LD(エスエルディー)→ |
MCの$-LDの一言がとても印象に残った。
「ここでは、まだ何も終わっていないし、何も始まっていない・・・」
サン・リアのフードコートにハンバーガーショップがあり、特色ある地元産材のハンバーガーがそろっている中、住田産の豚肉を使った「ありすポークカツバーガー」をオーダーする。
ふわふわのバンズにジューシーなありすポークのカツが絶妙なハーモニーを奏でる。大船渡はファスト・フードでさえ侮ることは出来ない。
ついでに、店内で売っていた、さいとう製菓の揚げまんじゅうを2個買ってクルマに乗り込む。
先週、N先輩に教えてもらった唐桑半島ビジターセンターに向かう。
45号線を南下するが、久しぶりに雨の降っていない高田を通り過ぎる。
そそり立つ一本松 |
ビジターセンターに到着すると、県外ナンバーのクルマが数台止まっていた。
ちなみに、大船渡の小学生も遠足に訪問する施設である。
管内には、津波関連資料や再現模型などが展示されている。当然、3月11日に関連した写真も多数展示されていた。
説明書きのいたるところに、熊野灘や尾鷲市など三重に関連する表記が見られ、親近感がわくとともに三陸と同様に津波常襲地であることを改めて認識する。
津波実験施設 |
そして、ここの施設の目玉ともいえるのが、津波体験館。
津波の再現映像とともに、冷たい風が吹き、座席は振動する。館内は一人っきりだったので、正直、心理的にかなり動揺した。
センター内には、書籍が置いてあるコーナーがあり、大船渡市役所発行のチリ地震津波復興誌が置かれていた。市役所でも見たことがない・・・
また、受付カウンター奥には、大船渡市や旧三陸町、大槌町の観光ポスターが当時のまま掲示されており、貴重なアーカイブとなっていた。
ちなみに、気仙沼と陸前高田、大船渡は生活圏として一体となっているようだ。三重で例えるなら、尾鷲-熊野-新宮といった感じか?
ここでも、係の方と30分ぐらい立ち話をした。
地震があった時、館内が停電してしまったこと。電話は通じたけど市役所には全くつながらなかったこと。帰り道が津波で被害を受けており、田んぼや畑を通って帰宅したこと。伐採されたアカマツを燃料にし、お湯やお風呂を沸かしたこと。自転車で買い物に行き、リュックいっぱい、両手も塞がっているのに、途中でリンゴをもらってしまったこと。ここには書けないが、人として許されざる行為が横行していたこと・・・
人々は、あらゆる手段を使って津波の恐怖を伝えようと努力してきた。書物、石碑、和歌、言い伝え、絵画・・・。近代以降は、写真、音声が加わった。
そして現代。未来を予測するシミュレーションやそれを元に作成されたハザードマップ、アニメーションやCG、衛星写真やハイビジョン映像、さらには絵本や漫画、歌詞、博物館や展示施設などその方法は多岐にわたる。
今では多くの情報がデジタル化され、劣化せず、居ながらにして入手できるようになった。しかし、情報はそこにあるだけでは価値を生まないかもしれない。津波の記憶を語り継ぐ人と組み合わされることによって、はじめて次の世代に受け継がれていくのではなかろうか。
この被災地にいる人たちは、誰もが語り部である。つらく、思い出したくないこともたくさんあることと思う。しかし、2011年3月11日に起こった出来事を、後世にむけてぜひ語り継いでいってほしいと切に思った。
せっかく気仙沼に来ているので、また今日も復興屋台村に向かう。
まぐろ丼は、最高においしく、一瞬で食べ終わってしまった・・・残念。