2011年11月16日水曜日

#28 異国の地

この冬一番の寒さだけあって、部屋もひんやりしている。

いつもの儀式に、宿泊の準備が加わり、ちょっと焦る。
外は思ったより暖かだったが、クルマのドアを開けると「バリッ」と音がし、若干凍っていたようである。
今日の市役所屋上非ライブカメラは北東。初雪を観測した山が見える。
N課長補佐に予算の資料の説明をし、定例の統計処理を行う。また、予算要求に必要な最後の資料が届き、準備を整えようとしたところ「アスベストの件で、市民生活環境課が打ち合わせを・・・」を伝えられる。S係長と、札幌から来たというS氏と打合せになるが・・・

被災地には、全国というより、世界から様々な方々が訪れる。特に、オールハンズボランティアは、「外国から来た人が溝さらえやってる姿をみて泣いた」という方がみえるくらい、大船渡を拠点として精力的な活動を行い、11月11日付で活動終了の告知を東海新報に掲載した。情報発信を含めて、すべての面でクオリティが高く、今後の日本におけるボランティア活動の参考になると思われる。

かたや、被災地にとってネガティブな人たちもやってくる。被災地のニーズを無視し持論だけを展開する人、被災地で行われている活動を根拠なく批判する人、弱みに付け込んでくる人、あらぬうわさを内外にばらまく人・・・
平常時であれば、容易に見破り、追い返すことが可能だが、混乱に乗じて侵入してくる者がいる。

当初予算の資料を微修正し、なんとかU係長に渡すことができた。締切に間に合った・・・!
その後、温度測定に行っていたT副技監が帰庁し、アスベストに関する今後の対応について打合せをする。

今日は昼食を頼んでいなかったので、売店でレアなカップラーメンを入手する。焼きそばで有名なぺヤングの製品で、味はチキンラーメンに似ていた。
統計資料の整理を終え、14時過ぎに市役所を出発する。水沢江刺駅までの距離はおよそ60km、いつもの通勤経路をたどる。
途中、道の駅種山ヶ原ぽらんですこし休憩。周りには雪がうっすらと積もっている。
水沢江刺の駅には、有料と無料の駐車場があるという情報を事前に得ていたため、駅東の無料駐車場に止める。満車かと思って少し焦っていたら、1台分何とか空いていた。ちなみに、改札口まで100mのところ。
しかも、モバイルスイカの調子が悪く、スマホの再起動をしていると、すでに指定券の発券可能時間を過ぎており、急いで券売機で購入する。あいにく窓側がキープできず・・・

やってきた「やまびこ」は、E2系とE3系を併結した16両編成。かなり空いていたので、E3系の12号車自由席に陣取る。雄大な東北の風景を疾走する姿は、東海道新幹線とは異なる雰囲気である。
あっという間に日が暮れ、宇都宮を過ぎたころには、隣の席にも人がきて、ほとんどの席が埋まった。

夜は友人のF一家と会食をするため、途中で乗り換える。
当たり前かもしれないが、3月11日は何もなかったかのように、どこにも復興の文字もなければ、被災地を彷彿させるようなものも見当たらなかった。わざとらしく、「がんばっぺし」と書かれたエコバッグを見せつけながら歩く。
電力の需給が緩和され、7月に行った時の、あの暗かった東京はもはや過去のものになっていた。

F家は7月に三重を訪れており、その時以来の再会である。
とりあえずいろんなものを掘り込んだ、オリジナル「気仙の土産セット」を渡すと、「玉手箱!」と表現され、ちょっとうれしくなる。

今の東京の様子を聞いた。
子供のいる家庭では、内部被ばくに対して相当ナーバスになっていること、ずっと葉物の野菜を食べていない人がいること、関東近郊の野菜が敬遠されていること・・・
三重でも同じだが、東京でももはや放射性物質の話しかなされていなようだ。

東日本大震災のことを、被災地以外の地方では、タイの洪水や、トルコの地震などと同じく、よその国で起こった出来事と思われてはいないだろうか。ふとそんな感覚に襲われた。
忘れられないように、風化しないように、被災地から声をあげ、情報発信を続けていく必要性を痛感した。