2013年8月31日土曜日

#218 まだ見ぬ街へ

なんとなく目が覚めると、8時過ぎだった。いろいろやりたいことがあるので、ガッツで起床する。洗濯をし、朝食を摂り、パソコンを少しいじくり、週あま(一週間まとめて放送されるあまちゃん)を見て、おもむろに1号機で出発する。天気は雨が降りそうで降らなさそうな曇り空。

45号線をひたすら南下し、石巻市の旧河北町にある道の駅、上品(じょうぼん)の郷に立ち寄る。片隅に、気仙沼で被災した国交省のパトロールカーと大谷海岸の道路標示が展示されている。
少し遅めの昼食を摂ることに。
金華サバの漬け丼
この時、自分の人生で最もお世話になっている親方から電話が入る。9月中に東北を訪問されるとのこと。日程をあらかた決定し、一度電話を切る。最大限のおもてなしをせねばなるまい。

石巻の市街を抜け、東松島へ。以前から立ち寄りたかった野蒜へ向かう。ここも、陸前高田市小友や山田町船越のように、二方向から津波に襲われた。
そのまま存知されている野蒜駅
変形した駅名票が切ない…
渋滞している松島を抜け、塩竈市内へ。2011年の7月に災害情報学会の調査で訪れているが、その時は目的を達成したのちすぐ離脱し、その後も通過する機会はあったが、ゆっくり見ている時間がなかった。念願の鹽竈神社を参拝する。
鳥居
式年遷宮に合わせ、現在本堂は修復中
隣接する志波彦神社
 高台に位置する神社からは塩竈港が眺められる。
隣接する博物館に立ち寄る。展示されている宝物のほとんどが江戸後期のものだった。神社創建は不明だが、吾妻鏡にもその記述がみられ、南北朝時代の文書も展示されている。収蔵品目録を眺めるも、古い宝物はなかった。まさか、慶長の地震津波で流出したとか...

塩竈の港をぬけ、七ヶ浜へ。45号線を行き来しているだけでは通ることのない街。
吉田浜では海岸沿いに新しい(か修復された)住居が多数みられた。またここに街が出来てしまうのかと思うと、少し懸念する。

菖蒲田浜にはたくさんのサーファーが。そして浜で遊ぶ人たちも見受けられた。
再度親方と連絡を取る。9月の3連休で宿泊先を調達することが困難だった旨を伝え、ひとまず先へと向かう。

仙台港北ICから仙台東部道路に乗る。仙台空港を過ぎ、亘理、そして山元へ。既に日が暮れてしまったので周囲の状況がよくわからない。灯が少ないのは、震災の影響なのか、元々利用されていなかった土地なのか。明日、再度確認することにする。

途中から常磐道になった高速は山元で終わり、以降6号線を走る。ほどなく福島県に入るが、切り立った峠や大きな川があるわけではないので、地域の連続性を感じる。
途中、相馬から南相馬の間は常磐道が開通しているが、カーナビの古い地図では表示されなかったので、ずっと下道を走る。

南相馬の中心部、旧原町市にあるビジネスホテル高見へ。
併設のレストランのオーダーストップ時間が迫っていたので、ひとまず夕食に。
やっぱりカツオは気仙沼に限る…
改めて、親方の旅行プランを練り直し、宿泊先を確保。18時の時点では満室だったが、複数サイトを捜索することで希望の宿泊先をとることが出来た。奥さんに吉報を報告する。

あぁ、NHKスペシャルのMEGAQUAKEⅢの録画予約を忘れた...

2013年8月30日金曜日

#217 アドバイス

明け方雨が降ったのか、ちょっと微妙な天気になっている。雨が降るかもしれないが、傘を職場に置いてきてしまったので、無謀にも手ぶらで出勤する。

昨日ログインに失敗したシステムも無事に使えるようになり、資料収集や整理を行う。
W技師の提案により、いつもと違う弁当やさんに注文することに。12時に届けていただくが、4つ頼んであるはずなのに、なぜか3つ...自分の分がないことに気付くと、W技師がダッシュで取りに行ってくれた。
曇り空の非ライブカメラ
午後、歌津の施工予定現場に関係する方の元を訪問する。ワカメやホヤ、ホタテなどを養殖する漁師さん。丘の上に建つご自宅へ。2回説明会で自分のことを見ているので、顔を覚えてもらっていた。そして、偶然、同じく事業に関係するご親族もみえたので、事業内容を説明し、快諾いただく。また、集落のことや祠の取扱いなど、細かなこともたくさん伺えた。

漁業を営む上で必要なことなど、いくつかご教示いただく。先日戸倉で行われた懇談会とは状況が異なることが分かった。採るものはものは同じでも、集落の背景などは浜ごとに違っている。
また、震災当日は家族が気仙沼、志津川、戸倉と別々になっていたこと、昭和三陸地震津波を経験しているおばあさんが地震直後に津波を直感したこと、気仙沼から帰宅途中に服を貸してもらったこと、志津川病院の屋上で一晩過ごしたこと...
また、数年前にご自宅を高台に建てた理由を伺った。答えは「津波が来るから」。自分の求めていた明確な回答を聞けた。

他にも、この集落ではこうやって進めた方がよいなど、的確かつたくさんのアドバイスをいただく。
帰路、同行していたI主事が「言葉がむずかしいね」とコメント。自分は「SLE(スピードラーニング効果)」でほとんどわかったと伝えておく。なんせ、4か月くらい長くこの地にいるんで!
夕暮れの大川
業務終了後、南町へ。大船渡市役所のメンバーと久々の定例会。今回は気仙沼のホルモン道場という店になった。凄まじいニンニク...金曜日以外は無理なお店である。
会食終了後、ベースキャンプを見学してもらう。愛知からきているM氏は末崎の仮設住宅に住んでおり、時々隣のおんつぁんから酒の誘いがあるそうだ。M氏はプライバシーの確保されたベースキャンプを絶賛されていたが、自分は仮設住宅のコミュニティに憧れている。

2013年8月29日木曜日

#216 もちつもたれつ

めっきり涼しくなり、既に長袖のパジャマを着ないと危険な状況となっている。三陸新報の一面には、気仙沼では盛土用の土が不足していると書かれている。陸前高田から搬入が計画されているが、盛土材だけでなく、この地では様々な資材が不足している。

午前中、ミーティングが行われる。赴任当時と比べると、かなり多岐に渡る内容を共有する必要があり、かなりの時間が費やされる。未知、未体験の業務が多いので、みんなが知恵を出し合って進めていく必要がある。あ、昼ごはん頼むの忘れてた...
売店でパンとカップヌードルのチリトマトを買い求める。いつも弁当のS主事が珍しく同じものを食べている。聞くと、弁当箱を出し忘れてしまったとのこと。なんだか微笑ましい。

午後は内業に勤しむ。入札の不調を回避するため、公開されている情報を少し繙いてみる。どういった事業のどのような工種が不調なのか順調なのか...コリンズと呼ばれるシステムを使おうと思うも、なぜかアカウントがロックされてしまった...もろもろ作業を進め、木曜日定例の掃除を行う。

業務終了後、気仙沼の母の元に散髪へ。先日の夏まつりで寮生がたくさん来てくれたことを喜んでくれた。最近の出来事などを話すと、「本当に自由だねぇ」と少しあきれられる。
夕食は久々に横丁のまぐろ亭へ。直後に3人の若者が入ってくると、マスターが新潟からやってきたボランティアの方だと紹介してくれた。2日連続でこの店に来てくれたとのこと。学生ボランティアサークルのメンバーという3人、気仙沼への来訪は2度目。この店に来ると、いつも全国区から来た人たちと会うことが出来る。帰り際、先日ポスティングされていたチラシにあったサンマを注文する。

大船渡線の終電を迎えに、気仙沼駅へ向かう。最終のBRTに乗り遅れた友人をピックアップする。この街には都会とは違った魅力がたくさんあるが、不便さも避けることは出来ない。

2013年8月28日水曜日

#215 on sight

カーテンの隙間から差し込む朝日に睡眠を妨害されながらも、いつものように起床し、いつものように出発する。2号機で乾いた風を切り裂いていく。

コンサルと電話で打合せ、土木事務所のY技査から図面をもらったり、視察の段取り、書類の作成などなど、バタバタっと時間が過ぎていく。11時過ぎに治山班のS主任主査とM技査が到着、事業の進捗状況など打合せを行う。以前お預けした排水接続関係の結論も出たとのことで、また一歩前に進められる。

昼食を摂りがてら、施工予定箇所へ確認に向かう。45号線沿いの手もみラーメンに久々に立ち寄るが、みんなの反応とは異なり、個人的には...次回があれば、しょうゆ味以外のラーメンにしてみよう。

まずはH技査が担当する市内の予定箇所へ。海側、陸側、漁港、土木、公園と様々な調整が求められている。また、設計、施工にあたっても一工夫求められる。一人無言で「うーん、うーん...」と考え込んでしまった。
このように現場に来るとよく思うのが、今できることは今やっておくべきということ。平常時に先送りにしてしまうと、災害発生後に大変困ってしまうことがある。特に地籍調査は絶対にやっておくべきと思う。むしろ今だからこそ、積年の課題や懸案が進められる、という話もあるが…。

引き続き、自分の担当する歌津の予定箇所へ。図面と電話でやりとりするより、現地で顔を突き合わせてディスカッションする方が圧倒的に有利だと改めて感じる。こちらの抱えている課題も、的確に示すことが出来た。
そして、久しぶりにチーム白老の親方に会う。奥尻島の話や北海道のことを少し話す。

自分の担当する戸倉の予定箇所では、現在設計の見直しを行っており、この辺りにこうやって、と全身(?)で表現する。そのシーンを見たからなのか、青色回転灯を点けた白黒の軽自動車が近づいてきた。怪しい人物ではないということを説明する。
パトロールしていた3名は地元の方のようで、昨日の懇談会とはまた違った意見を聴くことが出来た。きっかけはどうであれ、こうやってこの場にいたことで初めて聞ける話もある。

帰路、H技査といろいろ身の上話をする。H技査、T氏、そして自分も3人兄弟の末っ子。自分は末っ子っぽいとよく言われるが、二人はなんだか、自分よりはるかにしっかりしているような...
合庁でクルマを降りると、秋の匂いがした。

業務終了後、大手ショッピングセンターでパック寿司を買い求める。100円引きのお稲荷さんだけにするつもりが、横の方に目をやるとウニの軍艦巻きが...2割引きだったので、思わず買い求めてしまった。最近ウニに目がない。しかし悲しいかな、味も2割引きだった。

昨日から、岩手県宮古市田老地区について書かれた本を読んでいる。「万里の長城」と呼ばれる防潮堤の是非については、様々な媒体が様々な視点から論評している。書籍以外の情報も集めながら、近いうちに田老をしっかりと見てみたい。

2013年8月27日火曜日

#214 熱い議論

早朝から突然の防災無線と豪雨にたたき起こされる。しかし2度寝を敢行し、いつもの時間に起床する。出勤が躊躇されるくらいの豪雨だったが、ベースキャンプを発つころには小降りになっていた。路面がべしゃべしゃなので徒歩で出勤する。

机上に置かれていた書類を確認し、I主事と業務の進行についてディスカッションをする。プランAで行くべきか、プランBで行くべきか...今の業務は、時には機関車のように力強く推し進めなければならないし、時には石橋を叩いて壊す慎重さで臨む必要がある。手順が前後してしまうと、今までの積み重ねが水泡に帰する恐れもある。T班長とも相談し、プランAで行くことにする。

しばらくして、自分あての宅急便が届く。依頼してあった材料の見積書だった。これで一通り書類がそろったので、一つの事業がぐっと前に進む。

午後からの懇談会に向けて、T班長、I主事と出発する。途中、南三陸の入谷にある味志磨という店で昼食を摂ることに。ボリュームを最優先にするT班長ならではのチョイス。親子丼を頼むものの、味も良好。
開始時間20分前に志津川自然の家に到着する。高台にあるこの施設からの見晴らしは最高である。
漁港周辺の施設整備を中心とした地元懇談会が始まる。漁業に関して必要な施設をどのように配置するかが議論になる。守るべきものは防潮堤の背後へ、加工などは外側へなど、漁業者の熱のこもった話合いが行われる。事業を実施する側からは、制度の説明や出来ること、出来ないことなどの話が提供される。

災害復旧という制度は、原則「復旧」のため、従前の施設配置などに大きく依存してしまうことになる。時代の変化に対応するといった点や、積み重ねではなく新たな街を興すという観点では、若干硬直化しているかな、と感じる。未曾有の災害からの復興には、従来の発想や制度にとらわれない対応が必要かな...

参加者から、防潮堤の必要性について力説される。海が見えないという意見への反論、高さに妥協できないこと...辛い経験を経ているからこそ、こうやって発言していると仰っていた。
地区内にある3つの漁港の関連性などの議論が次回に持ち越しとなる。

教育委員会が所管する、「海青」こと志津川自然の家。研修施設としての役割だけでなく、マリンスポーツや海に親しむための取組も積極的に行われている。倉庫にはバナナボートが鎮座。ああ、久しぶりに乗ってみたいな...
海青から志津川を望む
事業予定地を訪ねると、近接する漁港に海青の職員の方がみえたので、利用状況などを伺う。名刺をお渡ししようとするが、名刺入れが見当たらない。海青に忘れてきてしまったようだ。職員の方が所属に連絡をしてくださっており、無事に受領することができた。多謝。
帰庁後、三重からの視察対応について電話で打合せを行う。

業務終了後、気仙沼の母の元を訪ねるが既に閉店、散髪は明日以降に延期となる。
いくつかの予約を行い、中華料理が食べたくなるものの、結局こけしへ。刺身盛り合わせ定食を食べる。
@800円
日が暮れてから、外はすっかり寒くなっている。窓を開けていられるのもあとわずかか。

2013年8月26日月曜日

#213 秋風

乾いた空気が爽やかな朝を迎える。カーテンの隙間から差し込む光に一度目が覚めるものの、いつもの時間に起床し、出発する。2号機で心臓破りの坂を登っても、あまり汗をかかなくなった。

T氏のぎっくり腰に少し驚かされる以外は、いつもと変わらない職場である。H技査から金曜日の県庁での打合せ内容を聞き、担当事業の進め方について少しディスカッションする。
秋(?)晴れの非ライブカメラ
コンサルタントから送ってもらった図面を加工するために、CADと格闘することに。図形のコピーペーストなど、スムースに行くと思っていたら、想像以上に苦戦する。このCADは、コピーしてから微調整するのではなく、コピー前の下準備が必要だった。

何とか図面を作成し、歌津の現場に向かう。明日の打設に間に合わせるために、型枠の検査を実施。久々にチーム白老と顔を合わせた。皆さん元気そうで何よりだった。
今日は金華山が見えた
隣接する漁港は、昨日見た岩手と比べると、防潮堤や防波堤の高さが全体的に低いと改めて感じる。
業務終了後、エスポワールでおろし納豆パスタを食べる。なんだか久々にやってきたような気がする。スタンプカードもあと1つで埋まる。
朝晩はすっかり涼しく、というかむしろ寒いくらいになってきた。三重よりも一月早く秋風が吹いているような感じがする。

2013年8月25日日曜日

#212 二度あったことは、三度あってはならない

部屋が暑くなって目が覚める。カーテンを開けると、目の前には太平洋が広がっていた。昨日早々と寝落ちしたので、6時には起床する。スマホの画面上部には、久しく見覚えのない「1x」の表示が。LTEどころか、3GもNG。
展望風呂で景色を堪能し、朝食を摂って出発する。まずは旅館近くの黒崎へ。
北緯40°のモニュメント。男鹿半島と同じ。
黒崎灯台
再び行き来た道を戻り、田野畑村の北山崎へ。時間も早かったので、お客さんはまばらだった。
驚異的絶景
穴、穴、穴
一眼レフで熱心に撮影しているおんつぁんから話しかけられた。北山崎をめぐるサッパ船は一人では乗れないので一緒に行かないか?と誘われたが、成し遂げなければならないミッションがあるのでお断りする。サッパ船も非常に魅力的なんだが...
少し話をする。青森からやってこられたそうで、今日は朝焼けがとてもきれいだったとのこと。しまった、もう少し早起きすればよかった...

海岸線を北上、再び普代村に入る。奥尻島によく似た風景。しばらくして、太田名部の集落へ。明治、昭和と2度の津波で被災した村を守るために、当時の和村幸得村長が建設を決断した。その高さは15.5m。結果は、背後地を完璧に防御した。
海側
山側
守られた街
スケジュールの都合から一旦離脱、普代水門を抜け、普代駅へ。
立派な駅舎
嫁さんは見つかったのだろうか...
併設の売店を物色してから、構内へ。数名が列車を待っている。
ひとまず久慈へ向かう。
うれしい硬券
美しい車窓
被災後に復旧した線路
三鉄久慈駅
たくさんのお客さんが待つ駅前からバスに乗り、小袖海岸へ。途中駐車場のある停留所から次々に乗り込んでこられ、最終区間では立客もいっぱいになった。以前も通ったころのある隘路は、一般車両の通行が禁止されている。

北限の海女で有名...というより、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台、袖が浜として有名な小袖海岸に到着。以下画像で。
宮城では見ることのない鉄壁の防潮堤
ガイドさんが見どころを案内
中央は夫婦岩。三重よりでかい。
有名な坂
津波襲来の碑
人、人、人!
おなじみの「まめぶ汁」
北鉄のヘッドマーク
普段は静かな漁港なのかも…
久慈市街と小袖海岸を結ぶ船。船籍地は女川...
主人公が疾走する防潮堤
北限の海女さんの実演
美しい映像に魅せられる「袖が浜」も、その背後には強固な防潮堤が控えている。防潮堤が小袖海岸の魅力を失わせたのか?答えは否だと思う。そして、防潮堤があったとしても、たくさんの海の恵みが、浜の人たちにもたらされていると見受けられた。

満員のバスに揺られ、久慈駅に戻る。乗り換え時間は7分。しかし出発が既に5分遅れてしまう。時計が気になるが、もはやあきらめの境地に入っていた。
駅までまもなくの頃、若い女性が運転手さんの元にやってきた。どうやら自分と同じ列車に乗る予定だ。機転を利かせてくれて、駅舎に近いところでバスを止めてくれる。ここから二人で猛然とダッシュ!そして、係員の方の機転で、発車ギリギリで滑り込むことが出来た。
3両編成の列車は団体客で満員。立ち席は厳しいものの、こうやってお客さんがたくさん来てくれるのは喜ばしい。小袖海岸で買い求めた塩うにとわかめのおにぎりを食べる。
列車は普代に到着、車掌さんに丁重にお礼を言って下車。「乗れてよかったですね!」とおっしゃっていただき、大変恐縮...。
普代駅名物こんぶソフト
しばし一服し、普代水門へ。今次津波は高さ15.5mの水門を超えたが、背後地の浸水は最小限に食い止められた。
上流側
下流側
陸閘
水門の前浜
水門の上流側
震災後に建てられた顕彰碑
以前から設置されている津波防災之碑
「二度あったことは、三度あってはならない」という、和村元村長の言葉が重い。

引き続き、太田名部の集落へ。集落全体を撮影できるポイントを探していたら、小屋で作業をしていたおんつぁんが手で「×」印を出し、この先は通行止めと合図してくれた。せっかくなので、防潮堤のことなどいくつかお話を伺うことにした。
防潮堤建設時はまだ働いていなかったそうだが、太田名部の住民は賛成、本村(普代村中心部のことと思われる)は反対という状況だった。今回の津波で被災しなかったことを考えると、施設があってよかったとのこと。身近で犠牲になられた方もみえたそうだが、防潮堤外側に荷物を取りに行かれた結果、とのことだった。
防潮堤があっても避難をされたのか、という質問には、当然という答えが帰ってきた。「てんでんこ」というセリフも出てきた。一つの懸念がここで晴れた。
また、宮古市田老の街づくりについては、被災前から懸念していたとも仰っていた。

津波には個性がある、と東北大の首藤先生が仰っていた。太田名部の防潮堤が今次津波に耐えたのは、漁港の防波堤で軽減されていることもあるだろうし、様々な条件が重なった結果だとも考えられる。中には逆の結果になった地域もあることと思われる。
ハードに100%はないことは十分に理解している。しかし、ここではハードのお蔭で被害が大幅に軽減され、限りなくゼロだったのも事実である。

近くに明治三陸地震津波の遡上高を表示しているサインがあるから、と教えてもらう。
海を眺められるような場所ではない
太田名部の漁港
沿岸を南下し、再度田野畑村に入るころに雨が降ってきた。
奥尻っぽい風景
やや濡れてしまい、一旦田野畑駅で避難する。丁度ツアー客がやってきて、地元のガイドさんが説明していた。被災直後には、電気よりも水がありがたかったとお話されていた。
津波到達地の碑
雨が上がった隙に出発する。45号線に入り、岩泉に入ったころには雨脚が強くなってきた。このまま走り続けることは困難になり、木の下で雨宿りをしながらカッパを着る。最初は持ってくるのを止めようかと思っていたが、カバンに忍ばせておいて正解だった。

宮古市に入ったころには前が見えなくなるくらいになり、危険な状態になってしまったので、三鉄の摂待(せったい)駅で避難する。案内地図に「津波大石」を見つけ、雨が上がってから見に行くことに。
しかし途中の橋が流出しており、見に行くためには渡河する必要がある。増水の危険とガソリン残量の警告灯が点いていることを鑑み、やむなく中止する。
←海       津波大石↑
後で知ることになるが、大石は慶長の三陸地震津波で流されたもので、今次津波でも同じような位置まで岩が流れてきたとのこと。

ガソリン残量を気にしながら、スタンドを探しに田老へ向かうが、なんとお休み...かなり慎重に超エコドライブで宮古の市街へ。開いているスタンドを見つけ、ガス欠前に給油することに成功した。そういえば、16年前に三陸に来た時も、開いていないスタンドに困窮した覚えが...

既に時計は17時。このまま南下を続けることに。
宮古市内で見つけた明治と昭和の津波記念碑
宮古市内の1960年のチリ地震津波記念碑
穏やかな山田湾
雨にたたられることもなく、暗くなった45号線をひた走る。大船渡に入ると、もう帰ってきたような気になってしまう。20時半過ぎ、長かったツーリングも終わりを迎えた。