2013年8月24日土曜日

#211 2度目の北へ

なぜか眠れず、寝たのが3時、明け方の雨で少し目が覚めるも、起きたのが8時半。当初のもくろみは大きく崩れてしまった。荷物を鞄に詰めるも、他にモノを入れるスペースがなくなってしまった。別の鞄に詰め替えて出発する。

天候も緩やかに回復し、3号機で出発するには丁度いい。ひとまず宮古を目指す。途中寄りたいところもあるが、またの機会にすることに。しかし、路傍の石碑は気になるので止まる。釜石の鵜住居を過ぎたところに、昭和の津波記念碑と堤防記念碑(海岸か沿岸か分からず...)が。
背面に文字が刻まれているものの、読み取ることは出来なかった。たまたま近傍の石碑に手を合わせに来ていた老爺に話しかけられ、ついでにいつごろ建てられたか聞いてみたが、わからないとのことだった。
大槌、少し吉里吉里の街を通り、山田を抜け宮古へ。市街地を走っていると、明治三陸地震津波の石碑を見つける。付近には、宮古港海戦の戦没者の慰霊碑などもある。
 津波で流出した鉄橋の一部も保存されていた。戦時中に付けられた銃痕が残っている。
明らかに空が暗くなってきて、一雨来そうな状況。避難もかねて昼食を摂るために、道の駅みやこへ。「シートピアなあど」と名付けられた建物は整備されて間もないと言った感じだった。
建物には浸水深が表示されている。
カレーが来た頃、既に豪雨...
スマホで雨雲の動きをチェックしていると、すぐに上がりそうな感じだ。店員さんから雨の中のバイクを労われる。
タイミングを見計らって、浄土ヶ浜へ向かう。道路はべしょぬれ、フェンダーレスの3号機は盛大にどろを跳ね上げている。

浄土ヶ浜の近くで、「岩手の漁業、漁具・・がわかる!」という看板にひかれて、県立水産科学館へ。最近漁業に興味を持ち始めたので、うってつけの場所だった。展示は非常に充実しているものの、あまりの多岐に渡る漁法が全然頭に入らない...生魚が触れないという弱点を克服することから始めよう...そして、当たり前のように津波の展示があった。
見学を終えると、またしても土砂降りに見舞われたので、しばし待つことに。屋内にいるタイミングで雨が降ってくるので、濡れずに済んでいるので良しとしよう。

引き続き、盛大に泥水を跳ね上げながら浄土ヶ浜へ。駐車場は多くのクルマが止まっている。よく写真などで見かける奥浄土ヶ浜へは、電気バスが走っている。ほぼ満員のバスは、タイミングよく出発した。
EV
翌日のジャズフェスタに備えステージが設置されているが、美しい景色を楽しむことが出来た。
片隅には、昭和三陸地震津波と1960年のチリ地震津波を記念する碑が建てられていた。
もう少し滞在したかったが、その後の行程を考えるとあまり長居も出来ず、すぐに発車するバスに乗り込む。発車直後、新米ガイドさんから、レストハウスの建物に浸水深が表示されていると伝えられる。しまった、もう少しゆっくりすべきだった...
近隣に設けられた仮設住宅は、国立公園内ということで景観へ配慮がなされ、外壁が濃緑で塗られている。

バスを降り、展望台から景色を眺めたあと、ビジターセンターへ。非常にきれいに整備されており、来場客も多数。
展示を見ていると、先ほどのバスガイドさんが駆け込んできた。息を切らせて「スマホを忘れてませんか?」と訊ねられた。まさしく自分のスマホ!
「気仙沼のストラップ、気仙沼ナンバーのバイクから、間違いないと思って...」と。わざわざ持ってきていただいたことに心底感謝する。東北の人の親切心に、また触れることが出来た。
津波の展示
ビジターセンター入口で、観光客向けのアンケートが行われていた。回答するとわんこ兄弟のマグネットがもらえるとのことで、答えてみることに。交通費の質問がなされるが、気仙沼から一瞬で岩手県に入るので、ちょっと回答が難しい...調査員の方から、バイクの旅はうらやましいですね、と。若干辛くもあったり...

既に時計は16時を過ぎており、どうあがいても宿に18時に着くのは困難。1時間ほど遅れると伝えて、さらに北へ向かう。途中、宮古市田老地区を入念に調べるつもりだったが、明日に延期。

岩泉町を抜け田野畑村に入り、「鵜の巣断崖」の看板を右折する。民家も少ない北海道を彷彿させる道を東へ向かうと、駐車場に到着。自分以外に来客はいなそうだ。ウッドチップの敷き詰められた歩道を少し歩く。
想像を上回る絶景が待っていた。日本とは思えない...
沖を行きかう船も、また一興。
駐車場に戻ると、松林に看板が設置されている。三重では見ることが出来ないアカマツの人工林だ。
再び45号線に戻り、途中海沿いを走る県道へ。海沿いの風光明媚な道をしばらく行くと、島越(しまのこし)の集落に到着する。どうしても見たい石碑を探す。
沿岸に集落はなく、高台に。
墓地の一角に、明治、昭和三陸地震津波の記念碑にならんで、それはあった。
「すべて」と書かれた下に、津波に備えた教訓が刻まれているが、残念ながら字を読み取ることが出来なかった。以下、東北地整のホームページより引用だが、今でも十分に通用する内容である。

一、ヂシンガシタラバユダンヲスルナ
一、ヂシンガアッタラタカイトコロニアヅマレ
一、ツナミニオハレタラタカイトコロニアガレ
一、チカクノタカイトコロヲヨウイシテオケ
一、オカミノサダメタヤシキチヨリヒクイトコロニ家ヲタテルナ
引き続き、三陸鉄道の田野畑駅のある羅賀の集落へ。吉村昭著の「三陸海岸大津波」でも見たことのある地名だが、もはや辺りは薄暗くなってしまい、様子を窺うことは出来なかった。
三鉄を模した水門上屋
黄昏の田野畑駅
既にあたりは真っ暗になってしまい、時間も押してきた。沿岸部とは思えない直線道路をひた走り、本日の宿「国民宿舎くろさき荘」へ。
真っ暗
建物の一部は、旧岩手県庁の払い下げを受けた材で作られている。夕食は、可もなく不可もなく。むしろ、コストパフォーマンスを考えれば良好である。
部屋から外は何も見えない。明日に期待しよう。