2015年1月18日日曜日

#723 meet someone

前日というか当日というか、夜更かしをしてしまったために、少し起床が遅くなる。既に危機的時間になっていたので、急ぎ準備を済ませて出発する。外は相変わらずの強風だった。

カーナビをセットし、1号機で出撃する。284号線を西に向かうが、ところどころに雪が残っており、千厩の中心部で若干挙動を乱す。除雪の大切さを改めて理解する。

ところどころ雪の残った道を走り、古川ICで降り、県道を通って会場へ向かう。加美町に入ったころから、途中全く除雪のなされていないところに遭遇する。もはや1号機ではアンダーパネルをこすってしまうのではないかと思われるアンジュレーション。頼む、除雪を...

どこから入っていいかわからず、少し迷ってしまい、開始時間に若干遅れての会場入りとなる。
 第14回宮城県雪合戦大会の代表者会議及び審判員講習会が行われる。会場には100人近くの参加者が...
主催者の挨拶ののち、審判員講習会が行われる。しかし、同時に反対側では代表者会議が始まってしまった。一人で来ているので、審判員講習会を優先させることに。組み合わせ抽選はお任せすることにした。
講習会ののち、ペーパーテストが行われた。講習会の内容そのままだったので、たぶん大丈夫と思うが...

解答用紙に書かれたチーム名を見て、隣の席の方が声を掛けてくれた。気仙沼在住の電気工事をされている方で、この方もいろいろな県からの混成チームで出場するとのことだった。昨晩のうちに仙台へ移動されたそうだが、三陸道は通行止め、とんでもない時間が掛ったとのこと...昨年も参加した先輩(笑)として、いくつかアドバイスを提供する。このチームも本気メンバーをそろえているようで、にわかに緊張感が高まる。

屋外では雪玉作成と模擬試合が行われるとのことだったが、あまりの強風と地吹雪のせいで、自分の作動限界を超えてしまった。退散することに。
除雪するモーターグレーダーに追従し、旧三本木町方面へ。
遮るものなし
少し小腹が空いたので、道の駅へ。
玉子かけごはん
少し土産物を買い、隣接する亜炭記念館へ。
この周辺は昭和中期まで亜炭の生産が行われており、日本のエネルギーを支えたが、鉱害という負の遺産も大きく残すことになった。

管内の展示は開館以来変わっていないようで、きれいに清掃されているものの、ある意味タイムカプセルのような状態になっていた。石油の可採年数が36年と書かれており、資料が作成されたのが1986年。計算上2022年には枯渇していることになるが、シェール革命ほか諸々の要素で可採年数は常に伸び続けている。

この当時から注目されていたエネルギー源のうち、太陽光発電は東北電力の火力発電量総量を上回る設備が、どうなるかわからないが予定されており、水素で動く自動車がいよいよ市販された。究極のエネルギー源として核融合が書かれていたが、あと26年後には実現していそうな予感がする。

展示室内の撮影は出来なかったので、ロビーを少々。
亜炭の塊
痛いぐらいの寒風が吹きつける中、仙台へと向かう。定宿に滑り込み、夜は仙台沿岸部に住むA氏と懇親となる。

震災のことを伺うことに。自宅は1階が浸水したこと、家族は皆無事だったこと、仲の良かった同級生グループの1名が亡くなったこと、学級委員を務めていたA氏が、葬儀の際に送辞を読み上げあこと、震災後に体調を崩して亡くなった親族のこと、そして家族との軋轢...話をしているうちに、A氏が涙ぐんでしまった...
話を聞いているうちに、ひめゆりの塔の資料館で見た語り部の映像を思い出し、そのことを話した。ある日突然、ともに学んでいた仲間が死ぬという現実。

人の死は運命と割り切っているが、それでも突然に友人、知人、同僚、そして家族が今、その場で死ぬという現実に直面したら、果たしてそれを受け入れることが出来るのかどうかわからない。
被災地の人々は、多かれ少なかれ、こういった現実を受け入れ、それを乗り越えて、今を生きている。
「惨害記録と哀話のみ綴っているべきではない」とは、「津浪と村」の著者山口弥一郎の言葉だが、ただ、こういった悲しみを繰り返さないためにも、今出来ることをやっておくべきなのだと思う。

光のページェントが行われたことが信じがたい定禅寺通りを歩き、宿へと戻った。