2014年7月3日木曜日

#524 遅々

薄曇りだが、雨が降りそうな気配は感じられない。7月に入っても、梅雨らしさとは無縁である。いつものように準備をして、いつものように出勤する。

普段は使うことのないADバンに乗り、T次長とともに南三陸のNという施工予定箇所に向かう。本来は菅原さんの苗畑を見学する予定だったが、今自分がメインで取り組んでいる業務を優先するのは当たり前である。苗畑に向かうメンバーに、菅原さんによろしくお伝えくださいと伝言する。

T次長はとてもよく話をされる方なので、車内で無言になる時間はなかった。去年とは大きく異なる状況は、自分にとっては助かっている。
道路も空いていたので、予定より早めに現場に到着する。二人で状況を確認し、待ち合わせをしていた方が合流したので、こちらの事情を説明する。成すべきことはさほど大きな規模ではないが、それでも手間はかかってしまう。
所用済ませ、泊崎半島を回って帰路に着く。名足の災害公営住宅は足場も撤去されており、完成間近の状況になっていた。
非ライブカメラA
南気仙沼では、水産加工の工場再建が急ピッチで進められている。そのうち一棟に、巨大なカツオのイラストが描かれている。とても目立つし、インパクトが大きい。赤い海の市といい、景観を大切にする街ではなかったのかな、と疑問に思う。何も、防潮堤だけが景観にインパクトを与えているわけではない。
今日は合庁で興味深い会議が開かれている。どちらも自分の担当ではないので出席は出来ないが、後で結果が聞ければいいか...
来週に向けて必要な資料作成に没頭する。しかし、前進はしているものの、一向にゴールが見えない。ちょっと焦りだす。

防災林をテーマに資料の作成を行っているが、整理している中でとても興味深い記述が沢山見つかってくる。この地方で、事業として最初に実施された防災林整備は1935(昭和10)年。それ以前にも小規模ながら松林が存在していたと思われるが、残念ながら写真などの資料にたどり着いていない。昭和三陸地震津波でも、1960(昭和35)年のチリ地震津波でも、防災林は効果を発揮したとされている。その時の街はどんな街だったのか、津波被災後の防災林の状況など、知りたいことが沢山ある。いつかその資料に行き当たるときが来るのだろうか...

結局、日が変わる直前まで作業を継続したが、終わらなかった。この作業が出来る時間はあまりないが、休日出勤は避けたい。ううっ...
夕食はいつものコンビニで冷製パスタを買い求める。あぁ、まるきのラーメンが食べたい...

夜更けに、ベースキャンプ周辺を国産の「超」高級スポールカーが走っている。2台見かけたが違う色だったので別のクルマのようだ。気仙沼で高級車を見かけることはほとんどない。皆、昼間はガレージに隠しているのだろうか。