2014年6月7日土曜日

#498 光と影

カーテンで遮られ光のないホテルの一室で、唐突にアラームが鳴る。見ると9時。まだ寝たい…
念のためにチェックアウト時間を確認すると、11時。2度寝して、起きて、ダッシュで準備する。11時ギリギリにエレベーターに乗り込むと、同じような客が何名かいた。

雨のそぼ降る中、4号線を南下する。お気に入りのダブルストーンに寄って靴下を買い求め、さらに南下する。岩沼から6号線に入り、フラットな亘理町を抜け、山元町に入る。

まず、常磐線の現時点の終点である浜吉田駅へ。
ここにもある、波来の地の碑
上下の時刻表でなく、上り列車の到着時刻が表示
グレーが運休区間
錆びた鉄路
海抜2m
そのまま線路に沿って、南下する。途中から架線柱どころか線路さえなくなる。このあたりは線路の移設が予定されている。
踏切でよく見かけるサイン。誰が作ったのだろう…
かつて、ここを列車が走っていた。
山下駅へ。山元町は昭和の大合併の際、山下村と坂元村が合併して誕生した。住田と同じような名前の由来である。
駅舎は解体済み
在りし日の山下駅
黄色いハンカチ
メッセージが重い
どなたかが作った、復興への思い
海側にも住宅が残っている
駅前の様子
駅前にある橋元商店に立ち寄り、お菓子を買い求める。入口付近のテーブルに、新聞の切抜きやチラシが置かれていた。じっくりと目を通すと、ふと疑問が沸いてきた。

一旦店を後にし、外に出ると写真館が。商店の店主らが共同で製作したものだった。
商店の倉庫を改装
4時で止まった時計が展示されている
館内には、震災前の山元の写真が沢山展示されていた。また、震災後の写真は別途展示されており、閲覧者に配慮されていた。
あるサイトを印刷されたものが掲示されていた。店主のインタビューだったが、山下駅が前触れなく、ある日突然解体業者からの挨拶があり、直後解体されたと書かれていた。

山元町は、常磐線を山側に移設したうえで、市街地を三か所(新山下駅、新坂元駅、医療・福祉地区)に集約する計画を行った。
青森市や富山市など、将来的な行政コストの低減などを目標に、市街地を集約化する取組が全国で始まりつつある。震災を契機に、将来の人口減少を予測し、新たな街を建設することは一つのモデルケースであり、評価されるべき取組と思っていた。

山元町では、それを是としない住民の方がいることは知っていた。また、町議会で町長の問責決議がなされたことも、薄っすらと記憶していた。
大船渡市三陸町吉浜のように、この時点では町の取組が最善であり、今という視点で考えている住民の方と、未来志向の町との間に行き違いがあるのだと思っていた。

それを確認するために、改めて橋元商店を訪ね、町の取組に反対している店主の「しんちゃん」に話を伺うことにした。

まず、災害危険区域の設定から話をされる。山元町は1、2、3のブロックに分かれており、1と2は土地の買い取りなど、他の自治体と同様の制度が創設されている。しかし、3のブロックでは、土地の買取りなどの制度がなく、被災者が持ち出す必要があるとのことだった。

災害危険区域の設定は市町村にゆだねられており、県内でもかなりの差がみられる。ただ、被災状況にさほど差がないと思われる、隣接する亘理町と大きく異なっているようなのは問題であり、できれば一律で設定すべきであると仰る。

また常磐線の東、南北を貫く県道は嵩上げが予定されており、二線提として機能を発揮することになる。が、災害危険区域設定の下限から、住宅をリフォームして居住を始めている方がいる。
現道はこの居住区域の海側を通っており、これらの住宅は守られるはずだった。しかし、突然の県道ルート変更により、二線提の外側に追いやられることになってしまった。

常磐線の移設についても、少し不思議な動きがあった。当初は施設的に問題のない山下駅までの運行再開が予定されていたようだが、なぜか浜吉田までとなってしまった。

他にも、被災直後の電力復旧、警戒区域の設定、復興計画策定に関する会議のあり方、派遣職員の位置づけなど、聞いている分には、とても21世紀の自治体が行っている内容とは思えず、大いに疑問を抱かざるを得なかった。
しんちゃんの話は、どんどん熱を帯びてくる。もちろん、しんしゃんが間違ったことを言っているとは到底思えなかった。しんちゃんも、コンパクトシティについては賛同している。ただ、合意形成のプロセスや、強引とも思える手法、行政が作り出す格差について強く反旗を翻しているのだった。

為政者は、中心街のない山元の街をどうにかしたいと、震災前から思っていたようだ。そして、これを機に中心市街地を造り出そうとしている。しかし、オープンになっていない計画は知るすべもないし、自らの思い描く未来像への「もっていき方」は、手段を選ばないという言葉がぴったりだった。

遠くない将来、三重を襲うであろう巨大津波から復興することを考えると、その時点で街を取り巻く様々な状況から、住んでいる方々の思い描くような街が出来ないかもしれない。であれば、事前にその姿をイメージし、震災前に合意を形成しておくことが望まれる。答えがわかっているのに、無策でいる必要はないだろう。

「ちょっと飲ませたいものがあるんだけど。」と、奥の部屋から小粒のイチゴを持ってこられた。イチゴの産地だけあって、加工用とされる、ランクの落ちるものが容易に手に入るようだった。
ミキサーで牛乳と混ぜて出来上がった「いちごミルク」。
「売れるかな?」と聞かれたので、「はい!」と答える。
ずぶ濡れのネコ、名前は「そら」が帰ってきて、しばらくするとクラウンの格好をした3名が入店する。静岡からやってきているそうで、月2回程度、この町を訪問されているとのこと。
箱座りでくつろぐ
クラウンに同行しているマネージャー(?)の方から、磯浜港の第一山元丸をデザインした絵葉書や白ブドウジュース、ステッカーなどを案内してもらう。そして、がっつり購入。

しんちゃんと4時間くらい話をしていただろうか。既に17時を回っていた。
奥尻しかり、普代しかり、田老しかり。話を聞きたいと思って、あてもなくその地を訪れても、必ず何かを得ることが出来ている。運がいいというべきか、神のご加護なのだろうか...

少し、山元を回る。
坂元駅と中浜小学校
コンパクトタウン造成の看板
役場には仮庁舎が増設されている
二線提の外側になる集落
辺りも暗くなってきたので、夕食を取ろうと仙台空港に立ち寄ってみたが、ほとんどがラストオーダーの時間だった。結局名取のファストフードで済ませ、三陸道経由でベースキャンプへと戻った。