2013年11月16日土曜日

#295 砂漠から杜へ

スマホのアラームが鳴らないので、まだ8時ごろかな...と思っていたら、バッテリーが切れていて既に9時半を回っていた。まさに惰眠...チェックアウトが11時まで許されているホテルで助かった。もろもろ準備をしていたら、結局出発は10時半過ぎになってしまった。天気が悪いことを想定していたが、外は暖かく晴れている。しまった...

やや銀杏臭のする1号機で、仙台市戦災復興記念館に向かう。以前から訪問したいと思っていたが、なかなかその機会に恵まれなかった。
ホールや会議室が複数ある文化会館的建物の1階に資料館がある。どちらかと言えば貸館がメインだが、「戦災復興」と名付けられていることで、この場所で催されるイベントの告知には必ず「戦災復興」の文字が刻まれる。

展示内容は、戦災前の街、戦時中に起こった出来事、そして復興計画と続いている。ガラスケースの中にあった「赤紙」には、津市船頭町という文字を見つける。また、旧市庁舎に設置されていたサイレンの前では、空襲警報のサイレン音を聞くことが出来るが、ヘッドホンから聞こえる不気味な音に耳をふさぎたくなる。
防空壕のレプリカ
空襲を避けるための訓練や罹災証明書などを見ていると、災難という観点から見ると、空襲も自然災害もその対応は類似している。戦争は不断の努力で回避できるが、自然災害は回避することが出来ないが...

復興計画のゾーンでは、年表や計画資料などを見ることが出来る。仙台市の戦災復興計画は1946(昭和21年)の1月に発表され、戦災復興事業としては1961(昭和36)年3月に完工式が行われているが、「完了」式が行われたのは1977(昭和52)年。街ができるまで15年、手続きをすべて終えるまで30年。新しい街を作るということは、それだけ時間がかかるんだと改めて認識した。
館内で流れていたビデオで、仙台の街づくりは名古屋を手本にしたというコメントがあった。似ているといえば似ているかも…

復興の過程で、まだ舗装が完全に行われていなかった仙台の街では、強風のたびに砂塵が舞い、「仙台砂漠」と揶揄されたことがあったそうだ。「杜の都」と称される今の仙台からは想像することが出来ない。
壊滅的被害に見舞われ、灰塵と化した仙台の街。未来をイメージし、計画を描き、それを実現した人々に敬意を表したい。

引き続き悪友のTや他の方にも薦められた瑞鳳殿に向かう。日光東照宮のような美しい霊廟は、戦後に再建されたものだ。
 
住所に注意
隣接する資料館には、政宗公の遺骨からDNA鑑定を行ったことなどが示されており、政宗公の身長は約160cm、血液型はB型だっただの、やや老婆心的な展示内容になっている。

2代、3代の霊廟も見、隣接する瑞鳳寺も参拝して、この場を後にする。
当初は多賀城の東北歴史博物館に行こうと思っていたが、折角の好天なので、内陸をドライブすることにする。

以前も通ったことのある457号線を北上することに。里山は少し色づいていて、遠くの稜線を見ながらクルマ通りの少ない道を行く。
兵器走行なう
色麻町に入り、前に行きそびれた「たまごかけごはん」の店に向かう。張り紙には「2時まで」と書かれており、時計は既に14時半。恐る恐る声を掛けてみると、「大丈夫ですよ!」と。350円でお代わり自由。食いしん坊にはお勧めの店だ。
 テーブルにはカッパのマークが。
おなかを満たしてから、栗原まで足を延ばし、金成にある温泉、延年閣へ。土曜の夕方ということもありそこそこ賑わっていた。

気仙沼に戻り、なんとなくハンバーガーが食べたくなりモスへ。洗車、洗濯といつもの生活に呼び戻される。
明日の予定は既に決まっていたが、2か所からお誘いを受けたのはうれしい反面、コピーロボットが欲しくなる。