2013年6月16日日曜日

#142 未来予想 -30年-

5時に起きて…という目論見は見事に外れた。起きたら8時半、出遅れた...急ぎ身支度を整え、チェックアウトする。

能代駅前の観光案内所で地図などを物色、市内のことを丁寧に教えてもらう。ひとまず、風の松原の案内所でもあるサン・ウッド能代へ。
無料レンタサイクル 臨時2号機
風の松原は、1700年代から飛砂防備を目的に整備がなされ、東西最大1㎞、南北7㎞、そして広さ760haの広大な森。クロマツがメインだが、広葉樹と混交していて非常に美しい。
サイクリングコースを行く
深呼吸したくなる
途中、散歩を楽しむ方々と何人もすれ違った。市民にとってなくてはならない森、そしてとても愛されていると感じた。
300年続く森は、日本海中部地震の津波に対しても減災効果を発揮したとのこと。過酷な日本海に面したこの地で、ここまでの森を育て上げるのは至難の業。先人の苦労によって、能代は安全で快適な街となった。

レンタサイクルを返却し、、能代港へ。港にあるはまなす展望台、9年前に来た覚えがある。
エレベーターなし
展望台の近くに、日本海中部地震の慰霊碑がある。当時、火力発電所の建設工事に従事していた34名が亡くなられた。慰霊碑には、さらにお二人の名前が刻まれ、36名となっている。
慰霊碑と防災無線の屋外拡声器
観光案内所でも、サン・ウッド能代でも、この慰霊碑の存在を教えてもらうことが出来なかった。周辺はとてもきれいに整備されているものの、人々の記憶からも失われてしまったのか…
それは何も、ここだけの話ではない。実家の近くにある伊勢湾台風の慰霊碑も、その存在を知っている人は少ないだろう。

引き続き、能代火力発電所へ。展示施設では地元の祭り「ねぶながし」の山車が展示されている。
併設の熱帯植物園は、かなりの来客で賑わっていた。
近隣の木材団地にある「木の学校」に寄る。展示施設は無人。少し寂しかった…
いったん7号線に出て、男鹿半島をめざし南下する。途中の路側帯でようやく見つけた...
ババヘラ!
秋田にやってきたら、やはりババヘラを欠かすわけには行かない。バラの花状に仕上げてもらい、堪能する。少しおばちゃんと話をする。しかし、くやしいかな、半分くらいしか意味が理解できない…三陸とはまた違った言葉なんだろうが、バイリンガルへの道は遠い。

7号線を逸れ、防災林に囲まれた道を走る。海岸に立ち寄ると、油田関連施設を見つける。さすが秋田。
そして、五里合という集落で日本海中部地震の慰霊碑を見つけた。この集落で6名が犠牲となった。津波の高さは約7m。

漁港の前面には、昭和63年に着工され、平成8年に整備完了した5m程度の防潮堤がある。しかし、海岸部には特に津波以降に整備されたと思われるようなハードは存在していなかった。

その後も、漁港を一つ一つ見ていく。三陸での状況を考えると、低い防潮堤に若干の違和感を覚える。北浦の漁港では、海抜1.5m程度の低地にかなり多くの住宅が建っている。前浜に防潮堤はない。
北浦漁港
そして海岸線を進み、入道崎漁港へ。最近の興味は、防潮堤や防波堤。漁港を囲むように巨大な防潮堤が整備されている。
入堂崎漁港にある8m程度の防潮堤。70mを5か月で完成。
入道崎の集落。海抜8mくらい
漁港を抜けると突然視界が開け、入道崎に到着した。
朝御飯を食べ忘れ、昼も過ぎてしまっていたので、ひとまず食堂に入る。ずらっと並んでいる店の中から一番リーズナブルだったところを選ぶが、残念なのことに男鹿のやきそばは売り切れ。岩のりラーメンを食べ、少し物足りないので「みそたんぽ」も。
炭であぶって、味噌だれで食べる
1997年、2004年と、実は3度目の入道崎。しかしいつも微妙な時間に到着してしまっていたので、灯台に登ることは出来なかった。3度目の正直で灯台へ。
ゼブラ模様
超絶景
灯台に登っているのは、男女2人組ばかり。かなり自分の場違い感が漂っている。しかし、緑で覆われた入道崎は、日本離れしていてとても美しい。

灯台の横には資料館が併設されおり、興味深い展示が並んでいる。ちなみに、管理人さんが2人みえ、2人でおしゃべりしているときはバリバリの東北弁、チケットを売るときは瞬時に共通語にスイッチ。すごすぎる…
本物の灯台のあかりがグリグリ回る。
少し周囲を散策する。ここ入道崎はちょうど北緯40度線が通過しており、その真上にモニュメントが設置されている。ちなみに、太平洋側ではちょうど普代村に当たる。結構北上したのだなと思いつつ、太平洋岸へのアタックも試みたいところ。
写真の手前にも、直線状にモニュメントが配置されている
グラスボートは次回にとキャンセルし、南へと進む。海を右手に臨む、アップダウンのあるワインディングロードは、日本でも屈指の名コースと思う。走っていても飽きることがない。

そして、何の目印もない交差点を折れ、加茂青砂の集落へと向かう。
行き止まりの集落は、平和そのものだった。しかし、日本海中部地震では、遠足で訪れていた秋田の内陸、合川町(現北秋田市)立合川小学校の児童13名が被災した。当時の小学生は、今の自分と変わらない歳になっていたのかと思うと、切ない。
三重県をはじめ、今では全国で防災教育が行われていることと思う。津波が来たらどう行動すべきかも、平地や海辺だけでなく、山間部の子どもたちにも教えられているだろう。
今の時代に、同じ災害が起こったら、命は失われなかったかもしれない。

一方、集落は海岸線まで家が建ちこんでおり、防潮堤も低い。目立ったハード対策はなされていないように感じた。日本海側は太平洋側に比べ津波の記録も少なく、まだよくわかっていない部分も多々ある。

日本海中部地震は、集落を完全に破壊するような規模ではなかったと思われる。たまたま運が良かっただけなのだろうか...
この地方では、新たな想定のもとに地震、津波対策が進められていくことになる。30年の間に何がなされてきたかが試される時が来ているような気がする。しかし、30年という月日は記憶を失わせるには十分すぎる…

海岸線を東へ向かっていると、シースルーの防潮堤を見つけた。海を見たいという願いと、波から守られたいという願いが同時に叶えられている。美ら海水族館の水槽のような巨大なものが出来れば、解決できる課題もあるような気もする。
おそらくポリカーボネート製
干潟のような鵜ノ崎海岸を横目に走っていると、再度ババヘラを見つける。花びらをかたどったフォルムが美しく、そして儚い。
すぐに溶ける
平らな海
101号線から県道を秋田市内へと向かう。海岸林沿いの片側2車線の道路は、日本とは思えない海外のような雰囲気を醸し出している。

秋田港を目前にしたころ、右手に海岸防災林の造成現場を見かけた。真っ新な防風柵の中には、マツの稚樹が植えられていた。悲しいかな、かなりの本数が枯れている。施工は林業事業体が行っているようだが...
海岸線に対し、斜めに植えられている
枯死したマツ
間伐材を活用した防風柵
秋田の街を走る。道も広く、とても走りやすい。しかし、ある交差点で左折、直進していると道を間違えている。目の前に存在していない道をナビが表示している。なんと、市内にかなりの長さの地下トンネルが通っていた!トンネルの入り口に戻るために後戻りする。

市内にさまよっているのは、どうしても行きたい店があったから。以前角館で買い求めた生もろこしを売りにする「唐土庵」に寄るためだ。本店は角館だが、今から行っては間に合わない。幸い秋田市内に支店があった。

店の方に試食品を勧められる。あぁ、やっぱりおいしい!

職場用と自分用を買い求め、秋田でのミッションをコンプリートさせることが出来た。
店を出てすぐのコンビニに立ち寄ったところ、犬の散歩をさせている方が「三重ナンバー、懐かしい!」と声を掛けてこられた。この方、自動車のバネを作るメーカーにお勤めだったそうで、四日市に8年住まわれていたそう。三重で日常生活を送っていると、秋田との接点はほぼない。なんとなくつながった感がうれしい。近日中に陸前高田を訪問されるとのことだったので、ぜひ気仙沼も見てほしいと伝える。

秋田中央ICから秋田道へ。クルマもアップダウンもカーブも少なく、とても走りやすい。三重で言えば、松阪から伊勢の間のような感じか…

徐々に山間部に入り、スノーシェッドとトンネルが連続する区間へ。こういった施設だけでなく、紅白のポールや縦の信号などを見ると、雪国に来たんだなと思う。

夕食がてら、錦秋湖SAに立ち寄る。オアシス館という村営施設が併設されており、食事だけでなく温泉も楽しむことが出来た。
ゆば丼
入浴を済ませ、土産物売り場を物色していると、木製の掲示板を見つけた。
陸前高田から、ここ西和賀町に避難してこられた気仙大工の方が作成されたものと書かれている。雪深いこの街も、同じ岩手県なんだ…
一関ICから284号線へ。何度も走っているからなのか、この区間が若干苦痛に感じる。県境を挟んでいるからなのか、高速道路が整備される予定もない。

気仙沼に戻り、旅の汚れを落とそうとコイン洗車場に向かうが、小銭を持ち合わせておらず、プリペイドカードの自販機も不調で結局断念。最後のちょっとケチがついてしまった。