2014年3月11日火曜日

#410 3年目の3月11日

いつものように起床し、いつものように朝食を摂り、いつものように三陸新報に目を通し、いつものように出勤する。夜のうちに雪が降っており、道には薄っすらと積もっていた。
いつもと変わらぬ職場で、いつものようにパソコンの電源を投入し、仕事を始める。特に誰かの口から震災の発言がなされるわけでもなく、いつものような雰囲気だった。
明日からの検査に必要な書類を整え、打ち合わせに必要な資料などをまとめる。

午後から休暇を取り、一旦ベースキャンプへと戻る。服を着替えて、必要なものをまとめて1号機で出発する。会場の状況からBRTで行こうか悩んだが、やはり今日は亡兄のクルマで行きたかった。

たくさんいただいたかんきつ類を気仙沼の母のもとへ届ける。「コーヒー飲んでく?」と誘われたが、時間の都合から辞退した。

45号線を上りながら、移ろいゆく景色に心が揺れる。失われたもの、生まれたもの、変わったもの、変わらなかったもの。災害廃棄物処分場、BRT、仮橋、防集団地、仮設の店舗...

1号機のハンドルを握りながら、突然の死について考え込む。予告されたものではなく、突然の死は、心の準備ができていないがためにショックがあまりにも大きい。
3年前の3月11日は、そういった突然の死が至る所で発生した。家族、友人、知人、同僚...
兄の突然の死も自分には耐えがたい出来事だったのに、同時に起きることを考えると、自分は耐えられないかもしれない。それでも、この地に生きる人たちは、その過酷な試練を乗り越えてきている。

兄の死後、母から言われたことがある。
「あんたまでおらんくなったら、立ち直れん。」
自分は突然の死を迎えないようにしなければ、と思う。

歌津で開花屋食堂に立ち寄り、カレーを食べる。テレビでは3年目の特番が流れていた。ここ数日、咀嚼することができないほど被災地に関わる情報がメディアに溢れている。しかし、しばらくこの地に住んでいると、都合の良い部分だけが切り抜かれたものが多いことに気づかされる。

いつものように南三陸町役場への道をたどるが、あまり会場に近づくと駐車できない可能性があるため、少し離れた場所にある第4駐車場に止め、シャトルバスでベイサイドアリーナへと向かう。
14時半から、東日本大震災3周年の、南三陸町追悼式が始まった。オーケストラや独唱による献奏があり、まずは東京で行われている追悼式の映像が流れる。

14時46分、黙祷を捧げる。

3年前のこの日この時...自分は四日市庁舎のデスクで仕事をしていた。なぜか揺れる前に「あ、地震!」と口走った刹那、ゆっくりとした揺れが襲ってきた。明らかにプレート境界型の地震という揺れで、免震構造の建物が不気味な動きをした。
停電しなかったので、即座にテレビをつけ、ネットで情報を集める。東北地方でM8を超える地震が発生しており、津波の襲来を確信する。
一旦席に戻るが、再び地震のことが気になったので職場のテレビを付けると、津波に襲われる気仙沼の街が映し出されていた。
その後、伊勢・三河湾に津波警報が発表された。実家に電話をし、ネコとともに高台へ避難するように伝える。その後しばらくして、ネコが収拾つかないと連絡があり、自宅へ帰るように指示する。自分も帰宅し、ずっとテレビを見ていた。
翌日、兄のもとへ出向き、頼んであったクルマをキャンセルし、FJクルーザーに変更したいと告げる。個人的に解決しなければならない問題を抱えていたため、身動きが取れないことがとても歯がゆかった…

引き続き、総理大臣の式辞ののち、国民を思う陛下のお言葉を拝聴する。
そして、佐藤町長の式辞に続き、宮城県知事の代読で土木部長が、続いて町議会議長が式辞を読み上げる。
遺族代表として、防災対策庁舎において、町職員だった父を亡くした方が言葉を述べる。
そして、各地から寄せられたメッセージの映像が流れた。

続いて献花が始まる。献花を終えて帰る人々の列から、まだ終えていない方に対して声が掛っている。知人なのか、友人なのか。そのやり取りからは悲壮感を感じることはなかった。
自らも献花を終え、会場を後にする。この空間は、悲しみを乗り越えて、前向きにそれぞれの道を進んでいるという空気に支配されていた。それは、風化や忘却では決してないと思う。短いようで長い3年...

そして、自分の街や三重では、追悼式を開かなくてもよい街にしていきたいと、心に誓う。

渋滞に巻き込まれているシャトルバスを横目に、役場の建設課へ向かう。Hという施工予定箇所にかかる町道の管理について、I係長に聞き取りを行う。役場ではほぼ派遣や任期付きの職員としかやり取りをしていないので、プロパー職員と二人で打合せをするのは初めてだった。
書類や台帳が滅失してしまったので、記憶をたどる以外に過去を知る手段がない。バックアップの重要性を改めて感じる。
ある程度打合せが終わった段階で、震災当日のことを聞かせてもらう。

その日は、町の東端である神割崎近くの現場に出向いており、地震発生後に398号線を経由して役場に戻ろうとしていた。志津川の市街地手前にある水尻橋のところで、警察官からこの先に進むことは止めたほうがよいと忠告を受け、車通りの全くなくなった市街地を避け、山手にある町営の介護施設に避難する。
火事を思わせる土煙が上がったのち、がれきと化した住宅が大量に流れ込んできた。この場所も危険になってきたので、老人を背負って山を登り、さらに高みにある志津川高校へ逃げ込んだ。
しばらくは、高台の住宅地から食料品などを分けてもらい、急場をしのぐ。しばらく避難所の運営をし、ベイサイドアリーナに設けられた災害対策本部へ向かった...
その後帰宅すると、自宅も全壊は免れたものの、1階は浸水して大きく破損した。幸いにも家族は無事だった。

気は優しくて、力持ちといった、まさにドカベンといった感のあるI係長も、今見せている笑顔や穏やかさとは程遠い状況を掻い潜ってきたのだと思う。また機会があればお話を伺いたい。

既に外は暗くなっており、I係長は献花に出かけ、戻られてから駐車場まで送っていただいた。少し遠いところだったので、本当にありがたかった。
いろいろ思いながら、1号機を走らせる。改めて自分がこの場所にいる意味を確認する。
人と少し話がしたくなり、まるきへ向かう。おばさんから「その恰好、今日はどうしたの?」と聞かれたので、「お見合いがあったんです(笑)」と伝えると、「よかったね~!」と返事が。息子さんから「その人、冗談通じないんで!」とツッコミが入り、即座に否定しておく。

息子さんと少し話をする。元々店のあった場所を見に行ったこと、この日を迎えると心が落ち着かないこと...被災していない自分は、同じ気持ちにはならないが、その気持ちを理解することはできた。
内湾で行われている「3月11日からのヒカリ」を見に行こうと、安波山へ向かう。駐車場にはたくさんのクルマが止まっていた。
三脚を持っていないので、手ぶれをしない限界のシャッタースピードを探りながら撮影する。何度もチャレンジするが、イマイチ...絞り開放で、シャッタースピードやISO値を変更し、水準器も見ながら、何度も何度もチャレンジする。

空には月が浮かんでいた。
帰宅後、折り込み広告に入っていた「気仙沼夢の復興図」を見る。現実の未来も描かれていれば、夢もたくさんちりばめられている。気仙沼はまだ夢を見られる街なんだと思った。