まず、地震発生時の対応についてA総括に確認を行う。管内で震度5弱以上で参集となり、県内で震度5弱であれば安否確認メールを送信する。昨日とった対応は間違えてなかった。
そして、現場の状況を確認するため、代理人のS氏に電話をするも繋がらない。事務所に電話をしても、現場に向かったとの回答。ちょっと嫌な予感がする。
しばらくして、S代理人から連絡が。携帯電話の電池切れのため、連絡できなかったが、現場の損傷は全くなかったとのこと。ホッとした。
応急対策が施されている現場を確認するため、S次長と出撃することに。気仙沼市唐桑町から南三陸町戸倉まで、管内を縦断する。熊野では、庁舎から放射状に、また現場間を環状に回ることが出来たが、ここは南北にひたすら一直線である。
特に被害も確認されず、気仙沼から南三陸に入ったころに昼を迎える。昼食は45号線沿いにあった「竜巳や」という店に立ち寄る。店内は満員で、少し待つことに。
魅力的なメニューが並んでいるが、平日にしか食べられないランチを選択する。コストパフォーマンスは最高だった。
最南端の現場を確認後、戸倉で防潮堤の高さを表示してある「丁張」を見つけた。従来整備されていた5.5mを上回る8.7mの高さになる。
地元出身のS次長に、当初の防潮堤はいつごろ整備たものかと伺うと、1960年のチリ地震津波以降では、とのことだった。
防潮堤に守られることによって、伊勢湾岸の市街地は発展した。しかし、防潮堤によって海や川と切り離されてしまったような気がする。ここに住んでいると、高いところに登らない限り、海を見ることはできない。
また、地下水の過剰なくみ上げによって地盤沈下も進行した。理由はそれだけではないかもしれないが、年を重ねるごとに堤防は強化されてきた。
ハードの整備が進むことにより、低地で住むために必要な知恵や文化が失われてしまうし、また災害への備えも忘れられてしまう。一方、安全性が担保されたことも、また事実。そんな守られし街で、自分は生まれ育った。
川越町にある伊勢湾台風の碑 |
小雨のそぼ降る中、帰路につく。心臓破りの坂の脇にそびえるサクラの古木、少し花が咲いている。
晩御飯は、いつもの福幸小町へ。今日はエスポワールという喫茶店に。仮設とは思えない店舗の雰囲気。セットでお得な日替わりパスタを注文した。
セットで\690 |