三陸新報の一面に、気仙沼のシンボルとなってしまった第十八共徳丸について、市議会で話合いがあったと書かれている。ここでも賛否両論、結論は出ていない。
相変わらず寒いが、さくっと身支度をして南気仙沼駅に向かう。駅と言ってもBRTのバス停だが...
気仙沼駅行のBRTが定刻で到着する。今日は道が空いているからのか、BRTならではのシビアな運行管理をしているからなのか…。席を埋めていた高校生が途中で下車してしまい、気仙沼駅に着くころには2人になってしまった。
盛まで乗継を運転手さんに告げ、乗換標を作ってもらうが、あいにく大きいお金しか手持ちがなく、窓口でと案内される。
盛行きの発車まで少し時間があるので、観光案内所でパンフレットや記録誌、ステッカーなどを物色する。
BRTを待っている人は、どちらかというと地元風ではない。朝のこの時間に県境を越える客は少ないのかも。
左側面:ホヤボーヤ、わんこ兄弟 右側面:むすび丸、オオフナトン、夢ちゃん |
45号線を北上し、いくつかの「駅」に止まり、陸前高田へ。市役所仮庁舎前に、みどりの窓口とともに観光案内所、バス待合室が出来ていた。ここで若者が数名乗り込んでくる。
スタンドアロンのみどりの窓口 |
2013年4月 |
2011年7月 |
大船渡駅からBRT専用区間へ入る。先頭でかぶりついていると、自動的に専用区間へ一般車両の侵入を防止する遮断機が開いたり、信号が変わったりと、一般交通に対しBRTを優先させる仕組みとなっている。
見慣れた盛駅に到着。
昼食を調達しようと、サン・リアに向かう。以前侮りがたいと思って食べたハンバーガー屋がなくなっていた。移転したのかどうかよくわからないまま、パン屋さんでサンドイッチなどを購入する。
盛駅にはJRと三陸鉄道(三鉄)の2つ駅舎があり、三鉄側の駅舎ではふれあい待合室となっており、お茶の無料サービスや土産物の販売などが行われている。また、一角にはサンドイッチを売っているお店があり、ここで買っておけばと、悔やんでも始まらない。
記念切符を買い、入線の案内を聞いてからホームへと向かう。土休日にのみ運行されているサクラのラッピングがされている車両だ。この車両は被災せず、吉浜駅に回送され、長らく留置していた。
開業当初からの車両、36-100形 |
車内にもサクラ |
大船渡の被災松で作られた記念切符 |
盛の街並みを見ながら、列車が動いているこの状況に、なぜか感無量となる。以前購入した、盛~陸前赤崎間の被災レール、多少は復活の役に立っただろうか...
ビッグプライス! |
終点吉浜に到着。写真を撮影する方々で賑やかになる。ここに留置されていた車両に、また乗ることが出来たことに感謝して止まない。
2013年4月 |
2011年7月 |
吉浜は明治三陸地震津波以降、高所移転を成功させ、今回の震災でも行方不明者1名という結果を導いた街。自分にとって理想の取組と思っている場所である。
集落の中にある正壽院というお寺には、「嗚呼惨哉海嘯(かいしょう)」書かれた、明治三陸地震津波の犠牲者の名前が刻まれた石碑がある。
※海嘯とは津波のこと。
海岸部なども、順次工事が進んでいる。
少し海岸沿いを歩き、松林の中に入る。すこし高いところにあるからなのか、特に被災はしていなかった。潮害防備保安林の看板を見かけた。
とても気になる記述 |
集落に戻り、電池などを買い求めて吉浜駅に戻る。まだまだ時間があるので、本棚に入っている1985年発行の岩手年鑑などを読む。ちょうど三陸鉄道が開業(1984年)した時期なので、写真入りで特集が組まれていた。
三陸地方への鉄道建設のきっかけは、明治三陸地震津波にさかのぼる。非常に交通の便が悪かったのこの地方の復興のために、鉄路が必要となった。今でいうところの高速道路のようなものだ。
復興のために開通した鉄道が、また津波によって破壊されてしまう。非常に切ないがぜひ鉄路としての再開を願っている。
来春、釜石まで全線開通予定 |
かなりくたびれた感が... |
リニューアルした釜石駅で、急ぎフリー切符を買い求め、釜石線の花巻行に滑り込む。適度な乗客、暖かな車内、つい眠ってしまった。
東北の日暮れは早い |
花巻で1時間のインターバルのうちに夕食を取って、東北本線で一ノ関へ。
花巻駅 |
一ノ関から大船渡線で気仙沼へ。文字通り、大船渡(盛)までの路線であるが、今は気仙沼止まりとなっている。2両編成のディーゼルカーに少しの乗客を乗せて出発する。
「ドラゴンレール」の愛称は、地図で路線をみると登り龍のように屈曲していることから。建設当時の我田引「鉄」の結果だそうだが...
出発からおよそ12時間。気仙沼に戻ってきた。
震災前のレベルには戻っていないと思われるが、こうやって三陸を公共交通で行き来することが出来るようになってきた。普段、自由に自動車を使っている身にとっては、趣味的な理由以外でその恩恵にあずかる機会は少ないが、地域の方々にとって移動の自由が確保されることは、とても大切なことなのだと思った。