2013年4月3日水曜日

#68 几帳面

悲しいかな、朝から雨。しかも暴風警報も発表されている。
幸い、風もそれほど強くないので、あまり濡れることもなかった。

心臓破りの坂を上り、登庁する。合庁では、入口で守衛さんがあいさつとともに深々と頭を下げてくれる。こちらも負けじと37°ぐらいでお辞儀する。熊野の守衛さんは、フレンドリーで気さくなおじさんたちだったが、どちらがいいというわけではない。どちらもいい。

そして職場に入ると、いつもこのすっきりとした、整然とした感じに驚く。そして、しかるべきところにしかるべきものがきちんと収納されている。そして、机の上が混沌としている人もいない。三重の時の私の机上を見たら、失神してしまうかもしれない。このクオリティをなんとか維持しなければ...

午前中は昨日に引き続き、班員のみで詳細な事業の打合せを行う。T班長から9時半から始めると告げられる。今はまだ一人で外出する予定や、誰かと打合せする予定もないので、いつでも打合せOKな状態にある。そういった意味では、派遣職員が来たばかりなので、遠慮されているのか、いつもこんな感じなのか。謎はしばらくしたら解決されるはず。

打合せを始める前に、少し気になっていることを伺った。職階のことや、異動のこと、事業全般のこと、県庁と地域機関の人員配置のバランスのことなどなど。ちなみに、肩書は技師→技術主査→主任主査→技術主幹→という並びになっているようで、他の肩書もあるようだが、もう少し調査してみようと思う。確認したわけではないが、どうも班内では私が最年少のようである。

いくつかの箇所について説明を受けている中で、鉄筋挿入工を組み合わせた吹付法枠工の現場が出てきた。昨年度に熊野で手掛けたこともあり、ちょっと得意そうな顔をしてみたが、現地の写真を見て驚いた。直下がすぐ海。同じ班のH技術主査は、この現場で転落し、長期離脱を余儀なくされたとのこと。本当に気を引き締めていかないと...

治山事業という切り口で見れば、三重はかなり事業量が多い。裏返せば、多くの事業を実施しない限り、森林の保全や市民の安全の確保ができないということかと思う。三重県北部の朝明川では、明治時代から100年以上砂防事業が続けられているし、1959年の伊勢湾台風以降、治山事業も県内各地で数多く実施され、その結果が表れているところも大いにあることと思う。

昼食はやや出遅れてしまったため、あえて食堂は避け、売店でどん兵衛とパンを調達する。大船渡で発見した「ペヤングヌードル」に匹敵するレアアイテムは見つけられなかった。そして、2階の窓から非ライブカメラの撮影をする。しかし、誰にも気づかれていないものの、見られたら変なヤツと思われないか心配である。
非ライブカメラは雨
午後、ペアとなるS技術主査のコンクリート圧縮試験に同行し、合わせていくつかの現場を回ることとなる。まず、南三陸町志津川にある生コンプラントに向かう。道を覚えるため、運転をさせてもらう。
職場には、名古屋市から寄贈されたランドクルーザー・プラドがある。こういった資機材を送ってくださった名古屋市の方、名古屋市民の方に感謝したい。
三重県では、圧縮試験をそれ専門の試験場で実施しているが、ここではプラントに併設されている試験室で行われる。ここで、これから関わる可能性のある現場代理人の方を紹介してもらう。朴訥な、東北の人という感じである。

その後、南三陸町歌津の施工現場へ。暴風警報が発表されていることもあり、現場は休工。現場事務所にお邪魔し打ち合わせとなるが、そこで驚愕の事実を知る。
なんと、土禁!そして非常に整然としていることに唖然とする。現場代理人の人柄なのか、正直、今の寮よりキレイかもしれない...隣接する合掌ブロック製作現場も、工夫が見られるうえにとても整頓されていた。
その後、施工予定箇所に向かう。隣接する漁港では、漁師さんがせわしなく働いている。活気のある漁港が戻っている感が漂っていた。
しかし、ある箇所では、背後にあった魚付き保安林が跡形もなくなっていた。また、そこにあったであろう神社も...震災以降2年が経過し、その間も自然の力によって徐々に変化が進んでいた。
そしてここには立派な松林があったそうだが、今はその痕跡さえない。
防災対策庁舎を横目に、南三陸の街を抜ける。なぜか、ここに来るときはほとんどが雨である...
途中、仮設焼却炉を見かけた。大船渡では太平洋セメントで焼却処分できりものの、気仙沼や南三陸ではこういった施設が必要となっている。

その後、気仙沼市のお伊勢浜を通り、岩井崎近くの予定地へ。
防潮堤に存在していた切欠きは、震災以後に埋められた。陸閘や樋門は、津波注警報発表に伴い、人が閉めに行くことで犠牲が発生する恐れがあるし、事実発生する。そのため、こういった「切欠き」は埋められ、今後設けられる防潮堤には、陸閘や樋門は設けられない。

帰路、墓地の間を抜ける。海岸沿いにあったため、大半の墓石が流出してしまい、まとめておかれている光景にとても切なくなる。

職場に戻り、端末の設定を行うためにログオフ、ログオンをしたところ、突然画面上に広告が出てきた。良からぬサイトを見て仕込まれたわけではなく、全職員の端末に企業広告が表示される仕組みになっている。収入の確保は、どこの県でも共通の課題である...
帰り際、臨時職員のOさんが切ってくださった市木オレンジを、林業振興課のM班長が手に持ち、「ビタミン不足がこれで補えます!!」と声をかけてくれた。

帰路、合庁前の大手スーパーへ。なじみの大手スーパーでさえ、まだ何を取り扱っているのかよくわかっていない。名産品コーナーで物色していたら、森林管理班のW班長に声をかけられた。なんとなく、街中で声をかけられるとうれしくなる。
サービスカウンターで、気仙沼のキャラクター「ホヤぼーや」のステッカーとバッチを買い求める。しばらくは気仙沼推しが続きそうだ。

そんな中、今日から新聞を取り始めたことを思いだした。気仙沼の「三陸新報」。細かい情報はこの地元紙で拾っていくことにしよう。
故郷永久と巨震激流は三陸新報社発行の本