2013年4月7日日曜日

#72 記憶と記録

昨日夜更かしをしてしまったので、昼まで惰眠をむさぼってしまった。途中、何度も風や雨の音で目が覚めてしまった。幸い、起きたときには嵐は過ぎ去っていた。

簡単に食事を済ませ、4月から始まった常設展「東日本大震災の記録と津波の災害誌」を見るために、街の高台にあるリアス・アーク美術館へ。仮設住宅の脇を通りクルマを走らせると、前衛的な建物が見えてきた。
入口がよくわからない...
まずは「ファイト新聞」展を見る。ファイト新聞とは、気仙沼市内の避難所にいた小学生が発起人となり、「明るい記事を書く」ことを社是に発行(というより執筆)されていた壁新聞である。途中編集長の交替などを経ながら、通管50号まで発行された。日々の出来事、四コママンガ、ランキングやイラストなどなど、知恵と工夫を凝らし、カラフルで賑やかな紙面が、避難所に光明をもたらしたことだろう。
残念ながらレクチャーの時間には間に合わなかったが、当時の記者さんたちが美術館の学芸員とともにワークショップを行っていた。

そして、気仙沼の民俗やゆかりの作家の展示がある常設コーナーへ。陶芸作品の中に、四日市出身の浅野治志氏のものがあり、なんとなくうれしくなる。
民俗コーナー展示を見ることで、山と海の恵みによってこの地方が発展してきたことがわかる。わかりやすい手書きイラストもよかった。
特に印象に残ったのは、カツオ漁のことと、山と海の結婚のこと。カツオ漁については、その技法を紀州から招いた漁師さんによって伝えられたとあった。また、山の幸と海の幸をシェアするため、昔はやや政略的に婚姻がなされたそう。

そして、「東日本大震災の記録と津波の災害誌」へ。展示室は調査員が撮影した写真と、被災した家財道具や建物の一部、そして過去の被災状況を伝えるために発行された絵葉書などで構成されている。
興味は防潮堤に関する記述に向かう。松林が被害を拡大させたとあり、地下茎で連結している竹林が良いのでは、と書かれている。
そして、記憶の伝承という点では、「記録と再生をセットで」残していく必要があるとあった。

その後、温泉を欲する自分を止められず、登米市にある「ヴィーナスの湯」に向かう。
45号線には、震災前にあった「津波浸水想定区域」という看板に代わって、「過去の津波浸水区域」という看板が設置されている。
本吉から内陸に向けて入り、フラットな道を走る。内陸と沿岸では、風景がすっかり変わる。途中に峠もなく、至って走りやすい。ゴール周辺で迷いながらも、なんとか到達。
比較的コンパクトな施設にも関わらず、駐車場はクルマでいっぱい。宮城県沿岸北部は日帰り温泉が少ないからか...コストパフォーマンスと距離を考えると、ローテーション入りは難しいかもしれない。

すこしダラダラしてから、帰路に就く。無性にラーメンが食べたくなるが、できれば気仙沼まで耐えたい...と45号線にでると、大谷海岸に「がんばろう家」という仮設の店舗を発見。
得々セット@750円
お店は、日中はご両親が、夜は24歳の息子さんと同級生で切り盛りしている。クルマのナンバーから三重出身がばれてしまい、最近定番の質問、「三重に来たことはありますか?」と投げかけるも、残念ながら×。宮城県北部で三重アピールも継続して行わなければ...
しばらくして、ご近所さんや同級生のご両親がみえ、格好の東北弁講座になる。申し訳ないと思いつつ聞き耳を立てていると、鹿折の「第18共徳丸」の話が。好意的な意見ではなかった。

店内に掲示してある、震災前の大谷海岸の写真を見せてもらう。防潮堤のことなども聞いてみた。次世代を担う若者の意見も、とても貴重なものだった。生活と安全の両立。これからも、こういった貴重な意見を引き出せるように努めたい。

つらい記憶を忘れないと、人は生きていけない。しかし、記録を残しておかないと、また同じように被災してしまう。記録と再生、そして記憶を語り継いでいくこと。忘れたいけど忘れてはいけない。悩ましい...

嵐の後もまだ風は残っており、暴風警報が発表されている。
冬のような風が吹いている45号線を、ベースキャンプへと向かった。