3時を回った函館の街は闇に包まれており、どこも見るべきところがない。ひとまずカーナビをセットし、北上することに。東北は晴れていたのに、北海道は小雨がぱらついている。
時間に余裕があるので、高速を使わずに5号線をひた走る。しかし、信号もほとんどないので高速とあまり変わらないか...燃料警告灯が点いたとき、丁度目前にガソリンスタンドが。不思議な形の建物でフルサービス。店員さんは厚手の上着を着込んでいた。
徐々に空が白みはじめ、広々とした北海道の大地が露わになってくる。兄が言っていた「マンベのストレート」とは果たしてどれのことだろう?みんなまっすぐすぎてわからない。
5号線から内陸へ分岐する手前のコンビニで朝食を買い求める。思わず、レジ横に置かれていた「わかさいも」も手にする。
230号線へと進み、長いトンネルを抜けると洞爺湖が見えてくる。兄が函館から引き上げる際、引越しの手伝いという名目で北海道に出かけた。帰路、フェリーに乗るために苫小牧へ向かう途中、ここに寄った覚えがある。それからすると17年ぶり。昭和新山はその後も訪ねたことがあるが…
写真を撮れる場所を探していたら、「サイロ展望台」という場所があった。少し靄がかかっているが、靄がいい雰囲気を醸し出している。
途中、キツネや轢かれてしまったシカの亡骸などを見かけながら、自然豊かな道路をひた走る。途中に峠があっても、三重のようなつづら折れではないので楽ちん。
札幌市内に入り、お風呂屋さんを探したところ、24時間営業している「湯の郷 絢ほのか」という店を見つけ、向かうことに。都市間では短いと思われる10㎞が、市街地では苦痛な距離となる。
身ぎれいにしてから、北海道庁へ。
慣れれば楽になるはずの地名表記 |
重々しい正門 |
美しいレンガ造りの建物 |
重厚な階段 |
北緯50度線の国境に設置されていた石柱 |
樺太での暮らしについて、お話を聞かせてもらった。終戦後にソ連軍が上陸したこと、その後ソ連からの移民とともに一つ屋根の下で暮らしたこと、実家は漁師で、「ヤン衆(ニシン漁で働く人たち)」がたくさんやってきて、米の手配を手伝わされたことなどなど…
他にも、磯焼けの話など、興味深く伺うことが出来た。1時間近く話していたかも。
北方領土の資料展示などを見て、いよいよ1階の文書館へ。
見学はお断り |
「私の先祖が、遠音別に住んでいたようで、手がかりを...」と伝えると、いくつかの資料を提示してくださった。
斜里郡遠音別村イタシベウニ。
明治10年に生まれた自らの曽祖父秀雄は、明治32年までこの地で暮らしていた。高祖父の熊十郎は大垣にいて、戊辰戦争にも参戦していたことがわかっている。熊十郎から秀雄まで、大垣から北海道へのミッシング・リンクを繋ぐのが、今回の目的である。
ネットでもサラッと情報はつかんでいたが、改めて昭和30年発行の斜里町史を呼んで再度確認することが出来た。
知床半島の中ほどにあるイタシベウニは、江戸末期に会津藩により硫黄鉱山として開発されるも、明治維新により放棄される。その後、開拓使の調査やお雇い外国人により、鉱山としての価値が再度見直される。
その後、皆月善六によって開発が進められ、明治32年7月まで操業が続けられることになる。曽祖父は、丁度操業が終わる直前に名古屋に転居してきたことになる。
いくつか資料をひも解いてみるものの、残念ながら手がかりを得ることは出来なかった。しかし、入手を願っていた、皆月善六による硫黄採鉱にかかる申請書など、イタシベウニ関連の資料を複写申請する。
明治期の公文書を見ると、あまり現代と大差ないことに驚きを感じる。むしろ、進化していないと言った方が正しいのだろうか...
担当氏のご尽力により、かなりいろいろな資料に触れることが出来た。少なくとも、この時期に斜里ではまだ開拓もほとんど行われていなかったこと、どうも熊十郎も秀雄も屯田兵ではなさそうな感じだったこと、小清水町の水上地区は自分と何ら関係ないことなど、いくつかの仮説を覆すことが出来た。
まだまだ資料を掘り下げてみたいものの、飲み物も飲まず、昼ごはんも食べず、ずっと籠っていたら15時になっていた。
次の目的地網走へは300㎞以上ある。昼食はファストフードのドライブスルーで済ませ、急ぎ東へと向かう。道央の風景は、山沿いを縫うように走る高速道路のせいもあるからか、見えている範囲では北海道らしさを感じることはなかった。
高速を降り、層雲峡や大雪山など、屈指の名所をすべて通過する。石北峠を超えて、暗闇となった北見にへ。夕食を食べようと、たまたま目にした「江戸そば丸吉」という、まったく北海道らしくない店に入る。
道新で北海道らしさを醸し出す |
温泉に入り、すぐに横になる。