ひとまず宮古駅へ。ちょうど盛岡行の快速リアスが出発するところだった。ちなみに、9:31発のこの列車の後は14:47までない。しかし、なぜか駅舎にはたくさんの人がいて、窓口も開いている。
隣接する三陸鉄道の宮古駅へ。本社があることもあり、グッズもたくさん売っている。自分も買い求め、Tも買い求める。硬券のきっぷが好きなTは、入場券だけでなく小本までの乗車券も買い求めていた。
途中で見かけた気になる石碑を見る。一つは台風や1960年のチリ地震津波での浸水深を表示するもの、もう一つは宮古開港記念のものだった。
そして、Tのリクエストで市役所へ。Tは、防潮堤を乗り越える津波から「逃げろ」と職員が絶叫していた映像が忘れられないとのことだった。その場所とその映像をよく覚えていたなと、非常に感心した。
市役所ロビー |
←市役所 |
近傍にあった想定浸水深を表示する標識 |
しばらく、車内でその当時のことを聞く。衣装ケースに水をもらいに行ったこと、寮の住人が組んできた湧水は、とても湧水とは思えず泥水だったことなどなど…
正直、しばし帰省しても良かったのでは?と訊ねたら、友達がいたから乗り越えられたと。自分より遅れて同僚となり、かなり過酷な職場を渡り歩いて、そしてどんな業務でもへこたれないTの忍耐力は、この時に養われたのかもしれない。
山田を抜け、大槌へ。見てもらいたかった役場を見てもらう。当然、Tはここで起きた出来事のことを知っていた。いずれなくなるであろう役場、まだ現存しているうちに訪問してもらえたことは良かった。
かなり時間が押してしまったが、なんとか発車5分前に三陸鉄道吉浜駅にたどり着く。南リアス線に乗るTと一旦別れる。
しばし休憩していたら、土木作業員風のおんつぁんから話しかけられた。この街のことを知っているかと訊ねられ、高所移転を成功させた伝説の場所として何度も訪れてると答えると、吉浜の生んだ偉人、水上助三郎翁について子細に話をしてくださった。
この地方の産業振興に、教育の発展に資材をなげうった翁。それほど大きくない街なのに、なぜこんなに偉人が輩出されるのだろう...
自分も水上姓であると告げる。自分も将来、翁のような偉人になれるのだろうか。
今まで休日にしか訪れたことがなかったので、今日は駅併設の市役所窓口が開いている。「大船渡市三陸町吉浜の人々の記録」という冊子を買い求めた。
盛駅でTをピックアップし、かもめの玉子好きなTのために、さいとう製菓仮店舗に立ち寄り、碁石海岸へ。昼ととっくに過ぎて微妙な時間だったが、レストラン岬は開いていた。
そして、碁石岬へ。三陸はどこも風光明媚であると、自慢しておく。
引き続き、陸前高田へ。失われた街、駅、そして人々。Tには十分すぎるほど伝わったはずだ。
津波の高さを実感したと |
土埃舞う |
陸前高田駅から市街を望む |
震災遺構として残されるタピック45 |
Miracle Pineに違和感が... |
NFCタグの埋め込まれた情報杭 |
曇天の一本松 |
背後の建物は遺構として残される |
ホテルにチェックインを済ませ、まだ時間があるので一路南三陸を目指す。自分の働いている街を案内しながら...
もう辺りは真っ暗だが、志津川の防災対策庁舎に寄る。大槌、陸前高田、南三陸と、かなり駆け足となってしまったが、見てもらいたかったところになんとか立ち寄ることが出来た。
こうやって、親友のTに初めて被災地を案内することが出来た。阪神・淡路大震災の経験、自然災害への知識、そして高い関心。「ルーチンワークが似合う」とTは嘯くが、実は行政の防災担当としてはサラブレッドのような人物なのかもしれない。
さんさん商店街に寄ると、既にほとんどの灯が消えていたが、松原という食堂はまだ営業していた。Tは秋旨丼を、自分は魚ばっかりだったので焼肉定食を注文する。
気仙沼に戻り、Tをホテルで下してから久々のベースキャンプへと戻る。郵便受に入っていた県政だよりを見ると、新コーナー「絆」の第1回は三重と兵庫!正直、かなりうれしい。