火曜と金曜は燃えるごみの日なので、ごみステーションに出してからいざ出勤、と思ったら、スマホを忘れた・・・ギリギリの出勤となってしまった。
来週の説明会に向けて資料作成を行っていると、水産漁港部と南三陸町戸倉での工事について打ち合わせとなる。メインテーマは別の手続きだが、自分の担当箇所と隣接しているので、スケジュールや工事の段取りなど少し聞き取る。
以前パトロールで顔を合わせた人なので、話もスムースに進む。面識のある方とだと、無駄な前ふりとか不要になり、それだけで仕事が8割方終わったように思う。いろいろな部署の人たちと距離を縮めておくのは大切だと、改めて感じる。
続いて、南三陸町議の方と打合せになる。担当する現場近くの漁師さんたちの想いを伝えてくださった。非常に前向きに話が進み、強力な応援団現る、と強く感じ、内心うれしくなった。
非ライブカメラ |
三重の防災部局にいるO先輩から、昭和三陸地震津波の後に発行された、内務大臣官房都市計画課発行『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』を探していると言われていたことを思い出した。少し検索したところ、原本をスキャンしたものが公開されているサイトを見つけた。
自分も、空中写真を使った都市計画の資料が載っていると聞いていたので、気にはなっていた。
この地方は、明治以降、明治三陸地震津波、昭和三陸地震津波、1960年のチリ地震津波、今回の東日本大震災と100年余りで4回の壊滅的ダメージを与える津波が襲っており、その度に新しい街づくりが行われている。
気仙沼市内では、階上や大谷において、明治三陸地震津波以降に新たな街区が設けられた。これらは今回の津波で浸水したものの、家屋の流出といった状況にはなっていない。しかし、過去の浸水域に無防備に建設された家屋は、残念ながら跡形もなくなってしまった。
昭和の津波以降、現代でいうところの災害危険区域が設定されたが、いつの間にかうやむやになってしまった。一説では、新憲法の交付で無効になったとか...
言い伝えや教え、決められたルールを守るかどうかは、個人に委ねられている。鉄の掟を守り抜いて、被害を最小限に食い止めた集落が存在する一方、そうでなかったところも存在する...
業務終了後、モバイルsuicaが使えなくなってしまったスマホの修理に行く。とりあえず、アプリの再インストールを案内されるも、結果は変わらず。初期化をして試してほしいと告げられる。いくつかのやりとりの中で、キャリアの現実がわかったような気がした。
そして、まるきでつけめんを食べ、帰宅。部屋掃除をして、AndroidSDKをインストールして...
久々にゆっくりした金曜の夜を迎えている。