2013年7月15日月曜日

#171 未来予想 -20年- 3日目

6時から営業しているという、フェリー乗り場の土産物店に行こうと試みるものの、その願いはもろくも崩れ去った。目覚ましを何度も延長し、目覚めたのは7時半だった。

荷物とまとめ、朝食を摂ってから宿を出ることに。女将さんはおおらかな方なので、初日のビールの計算を忘れられていた。当然自己申告をしておく。しかし、自分の住所も聞かれることなく2泊もしていたので、奥尻の人は心が大きいのだなと、感心した。
フェリー乗り場のお土産物屋を物色し、1階の観光案内所へ。「蘇る夢の島」というパンフレットを所望するが、渡せる分はないとのこと。休日に来ているからやむを得ないか...
しかし、観光案内所で話した方が、陸前高田の知人の友人であると後で知ることになる。

昨日のリベンジを敢行するため、球島山へ。今日は天気も非常に良く、観光バスもやってきて、山頂は鈴なりになっている。
人がいなくなってから撮影
小さく島を周り、奥尻の中心部へ。
奥尻町役場。煙突が北海道らしい。
 まだ時間の余裕があるので、うにまる公園へ。一角にはオリックスで長年活躍した、奥尻出身の佐藤義則投手の記念館がある。入場無料。
そして、一段下がったところにはふるさと創生事業で制作されたオブジェとタイムカプセルが。
うにまる
タイムカプセルの収められた施設
最後に、観音山の慰霊碑に手を合わせる。
ガソリンを入れ、レンタゲンチャを返却する。空港まで送っていただけることになり、待ち時間はレンタカータカダの茶の間で、インスタントコーヒーをいただく。台所の脇にある「ペチカ」と呼ばれる暖房器具は、先代のたっての希望で導入されたもので、奥尻でもここ1軒だけらしい。さすがに写真を撮るのは控える...しかし、こうやって北海道の普通のお宅にお邪魔できたのは良かった。

奥尻空港はX線の検査機が設置されていないため、すべての荷物を手で開けて調べられる。大人数だととても捌けないが、帰りの便も10名程度なのでつつがなく終了する。
木がふんだんに使われた美しい空港
行きと同じSAAB製航空機で、奥尻を発つ。船だったら感慨深くなって涙してそうだが、そういった面では飛行機は有利かも。

30分で函館に到着し、手荷物を受け取ってダッシュでタクシーに。運転手さんと話していると、「気仙沼は大変なんですよね...」と労われる。気仙沼のネームバリューは全国区と痛感する。

発車数分前に函館駅に到着し、急ぎみどりの窓口に向かうも、大混雑。時間がなくなってしまい、車内で購入すると告げ、新青森行スーパー白鳥に滑り込む。しかし、自由席はあいにく満席...デッキで立ち席となってしまった。

しばらくして車掌さんがやってきて、札幌からの特急が接続しなかったので、指定席に空きがあると伝えられる。木古内停車後に空席へ移動した。
車掌さんから切符を買い求めるも、乗継割引の適用を案内してくださったうえに、非常に丁寧に接客してくれた。最近よく車両が燃えてしまっているJR北海道も、このような優秀なスタッフがたくさんいたら大丈夫だろう。

手洗いから戻ると、前方から一人の男性が自分を目指してやってくる。あ、この席の指定券を持っている人かな...と思ったら、なんと同僚のW技師!偶然同じ電車に乗り合わせていた!
789系
新青森に到着後、W技師の同行者に写真を撮ってもらう。車内での超絶仏頂面を見られていないか心配...
駅構内を少し徘徊し、はやてで盛岡へ向かう。盛岡では初めて新幹線の連結シーンを見ることができた。
←もうじきお別れのE3 E5→
ホームに埋め込まれた完工の証。開通から31年が経過
やまびこに乗り継ぎ一ノ関駅に到着。駅に隣接している喫茶店で晩御飯を済ませ、無事に気仙沼着。

わずか3日間とはいえ、多くのことを学ぶことが出来た。すこしまとめてみる。

・防潮堤と街づくり
北海道南西沖地震以降、奥尻では災害に強い街が作られてきた。10m級の防潮堤がかなりの延長で整備されているが、陸側から見る限り、盛土がなされていることもあり、そびえ立つ壁というイメージはなかった。むしろ、以前の風景を知らないものにとっては、何の違和感も感じなかった。また、今後自分が手掛ける予定の施設のイメージが湧いたことはとても大きな収穫だった。

・観光
奥尻島の観光地としてのポテンシャルは高く、三重の熊野と同様に、防潮堤ごときでその魅力が全滅することは決してない。しかし、アクセスが3便(船2、航空機1)と非常に厳しく、思い立って出かけられるような場所ではなく、また、宿泊施設やレンタカーの予約においては、ホームページでの情報発信は殆どなされておらず、予約は言わずもがなである。もちろん、実際に現地でお会いした店の方々は、どなたも素晴らしかったし、サービスも申し分なかった。到達までの高いハードルを越えて得られるものは、リピーターとしてまた訪れたくなるほどのものなのか。実は、目で見えていないものこそが、奥尻の本当の魅力なのかもしれない。

・地方の課題
7月12日で地震発生から20年を迎え、メディアでは特集が組まれ、また、東日本大震災の復興のモデルとして取り扱われることも多い。奥尻における人口減や観光客の減少など、なにかと復興事業の失敗と揶揄され、過剰なハードが原因だと論評されることもある。しかし、実際は奥尻固有の問題ではなく、日本全国の地方の課題でもある。
内地に比べて不利な状況も多くあるが、裏を返せば内地にない魅力を有していることでもある。島民一人一人が、改めて奥尻の未来を考える時期が来ているような気がする。

・維持管理
施設は確実に老朽化していき、実際にその状況を見ることが出来た。また、維持管理も徐々にきつくなってくることは確実である。これから人口が減っていく中で、どの施設を残し、どの施設をあきらめるか、そういった決断を迫られる日が遠くない将来やってくる。場合によっては、幌内のように集落ごとあきらめることになるかもしれない。

・復興地の宿命
奥尻を見たとき、ふと大船渡市吉浜を思い出した。過酷な試練を受けた被災地が下した決断は、他所から見ればあまりに極端で、無駄と思われるかもしれないが、東日本大震災で吉浜が見せた結果が全てを物語っている。
メディアなどを通じると、どうしても批判的な意見のみが前面に出てきてしまい、新しい街でよかった、施設が出来てよかったという声は伝わってこない。今回、よかったという声を聴けただけでも大きな収穫だった。

奥尻の街づくりが正しかったかどうか、答えが出るのは10年後か50年後か、はたまた100年後かわからない。しかし、無防備な状態で次のその日を迎えてしまったら、人口減どころか無人島になる可能性もある。津波から逃れることのできない奥尻が、いつか「奇跡の島」と呼ばれる日が来ると、強く、強く思った。