実家にいると自動的に朝食が準備されるのがよい。といっても、もういい歳になったので、そんな甘えていてはいけないんだが...いろいろもそもそ身の回りのことをしてから、イタリア語で「扉」という名の、お袋の愛車を略奪して出発する。
1944(昭和19)年の今日、昭和東南海地震とその津波が発生し、三重県に甚大な被害をもたらした。それを記念する意味も含めて、12月7日は「みえ地震対策の日」とされている。
みえ川越ICから伊勢湾岸道、東名と走り、音羽蒲郡ICで下りて1号線を東へ向かう。いつの間にかバイパスが開通しており、静岡県境までノンストップで走りきる。学生のころ意味もなくこの辺りにドライブに来ていたが、そのころとは環境が一変していた。
潮見坂の道の駅で休憩。ドアを開けると暖かな空気が支配していた。さすが静岡!
敷地内には防災専門ショップがあり、いかにも静岡らしいと感心する。
土曜日のお昼時だからなのか、かなりの人でごった返している。併設のレストランで生のりうどんを食べる。
お気に入りの浜名バイパスを抜け、一路中田島砂丘方面へ向かう。今日の目的は砂丘ではなく、近傍で建設されている防潮堤。手元の資料を参考に、まず一つ目の試験施工地へ向かう。
浜松では、一条工務店から300億円の寄付があり、防潮堤の再整備を実施することになっている。防潮堤の形式は「CSG堤」と呼ばれるもので、CSGとはセメント、砂(Sand)、岩石(Gravel)の頭文字をとったもので、コンクリートよりも強度は劣るが、資材が現地調達可能な場合などにはコスト面でも有利なものであり、近年はダムの堤体などで利用されており、東日本大震災の被災地では、福島県でCSG堤が作られる予定である。
ここで整備されるものは、CSGを堤体の核とし、海側、山側ともに盛土と植栽を行うものである。周辺は幅の広い防災林で覆われているが、前後に植栽があればより違和感なく周囲に溶け込むだろう。
施工現場周辺は残念ながら立入禁止となっており、遠巻きに眺めるしかなかったが、資料や写真では分かりずらい周囲の環境などを把握することが出来た。
工事看板 |
海岸林から堤を眺める |
同じ |
海岸林背後の状況 |
背後は住宅地になっている |
上の写真の逆方向。海岸までは遠い、 |
近傍にあった海岸に続く道から海辺に出てみる。広々とした砂浜がずっと続いていた。
来た道を引き返し、もう一つの試験施工地へ。同じく現場周辺は立入が禁止されており、様子を窺うことは出来なかった。
砂浜の背後には広い林帯幅を持つ海岸林が整備されている。しかし、ところどころ松くい虫の被害が見られ、裸の状態になっていた。
背後地には高層の市営住宅と思しき建物や住居があり、一角の公園には真新しい津波避難タワーが整備されていた。
引き続き、150号線を東へと向かう。このあたりの風景は、仙台平野に似ているような気がする。被災後の様子しか知らないが、被災前はこんな雰囲気だったんだろうな…
車窓には津波避難タワーや避難看板を見かける。
遠州大橋を渡り、磐田市を抜けて袋井市へ。まずは湊地区に建設中の「命山」を見学する。21日に完成式典が行われる予定であり、作業の追い込みに入っていた。
全景(東から) |
自動車も通れる幅のスロープ |
複数設けられた階段 |
説明看板もプチプチの中 |
全景(西から) |
続いて、近傍にある中新田の命山へ。1680年に発生した高潮災害ののちに整備された人工の築堤。
全景 |
頂上からの眺め |
説明看板 |
そして、もう1か所ある大野の命山へ。周辺は完全に建物で埋め尽くされていた。
時代が変わっても、素材が変わっても、海からの災害には高く避難する以外の方法がないと知らされる。
静岡では、目に見えて次に来る津波に備えている。果たして、我が三重を含めてほかの地方はどうなっているのだろう...少し情報収集せねば。
ひとまず見たいものを見ることが出来たので、袋井ICより帰路につく。浜松の街に沈む大きな夕日がとても素晴らしかった。停まれれば写真が撮れるんだが...
凄まじい睡魔に抗うことが出来ず、浜名湖SAへ。かなり寝込んでしまい、既に夜になっていた。
昨日と同様に悪友Tから連絡があり、自宅近くのファミレスでねまる。店を出るころにはとっくに日が変わっていた。