2011年12月11日日曜日

#53 Crossover Ofunato Vol.5 -そして伝説へ-

何やら、体が重い。久しぶりに体を動かしたからかな・・・
若干頭が痛く、起きたら10時を回っていた。しかし、天気はとても良いので、出かける準備をする。

今日はあの日から9か月。東海新報の1面には、心を打たれる記事が2つ載っていた。
一つは、大船渡市でこの震災により亡くなられた方の年齢構成。60代以上が7割を超えている。チリ地震津波の経験が、避難行動を阻害したとの記述も。そして、世迷言には、市民の方は、あのつらかった出来事を、震災を、忘れてしまっているのではと・・・

今まで、世田米をあまりじっくり見ることがなかったので、前から気になっていた満蔵寺へ。
気仙大工の技の真骨頂ともいえる山門を拝む。
とても立派
龍の彫り物
うん
柵の頭頂部が横一直線でないところに注意。こだわりを感じる
そして、気仙川のにかかる昭和橋のたもとから蔵を眺める。
味わい深い昭和橋と蔵
世田米も、とてもいい雰囲気の街である。
国道107号線を通って、大船渡の街へ向かう。まずは加茂神社へ。目的は神社でなく、チリ地震津波の1年後に建てられた津波警報塔。頂部にはスピーカーが設置されており、モーターサイレンの音によって津波来襲を市民に伝える。毎月11日正午には試験吹鳴が行われるが、残念ながらタッチの差で聞くことができなかった。
50年変わらずここに建っている
完成当時の写真を見ると、塔の前は空き地だったが、今は社務所が建っているので、なにやら奥に押し込められているようである。塔のたもとには建設の経緯が書かれた石碑が立っている。
義援金の一部を利用したとある
碑文の末尾には、「誓つてかかる災いを繰り返すまじとの祈りをこめて」とあり、当時の鈴木房之助市長の名もある。今の大船渡を見て、はたしてどのように思われるだろうか・・・

加茂神社は高台にあるので、大船渡町一体を一望することができる。がれきや基礎の撤去が進んでいる。
手前に見えるのは、今後オープンする予定の仮設商店街
境内には、転倒したままの石碑もある。
昼ご飯を食べに行こうと、おおふなと夢商店街に向かう。
少し閑散としているが、みなさん市外や県外に買い物に行かれたのだろうか・・・
商店街には飲食店があるのだが、営業時間外なのと工事中でやっていなかった。
「産直けんちゃん」の前を通ると、おたかさんの友達のひろちゃんが手招きしている・・・
中に入り、「食事できるところはありますか?」と尋ねると、お惣菜買って食べたら?と言われ、おでんと群馬製カップラーメンを買い、店内の角にあるテーブルに陣取る。
おでんは住田製。うまい!
商店街には一服するところがないので、お年寄りがこのスペースで休憩していくそうである。
昼下がりという時間もあって、お客さんはまばらなので、ひろちゃんとオーナーのK氏と少し談笑。
K氏はスポレク2001の時に、三重を訪問したとのこと。また、住田には民泊施設があるなど貴重な情報がもたらされた。
店内は気仙杉の什器でコーディネートされており、ふわっとスギの香りがする。
駐車場からクルマを動かそうと思ったら、頭頂部が紫色の見慣れぬ杭を見つけた。
311まるごとアーカイブスにおける取組の一環で、定点観測ポイントとして、また将来はスマホのアプリと連動させて情報の閲覧が可能になるとのこと。日々変化する町並みを、この杭が目印になって追っていけるのはよい取組と思った。こういった積み重ねが将来きっと役に立つはず。
しかし、クルマでひっかけそうな場所に建っていたのは少し危険かも・・・
市内には仮設店舗がちらほら
そして、今まで行ったことのない崎浜に向かう。
国道45号線で越喜来から東へ向かう。越喜来の街を抜けたところに石碑を見つけた。1962(昭和37年)に建立されたと書かれている。碑文には、「此処くらいの高い処へ上がれ」と記されているが、残念ながらここより高いところまで津波は来襲していると思われる。そして姉吉とは違い、この下に街があった。
石碑より上側から越喜来の街を望む。右が石碑。
アップダウンと左右に曲がった道をしばらく進むと崎浜に到着する。防潮堤の内側も被災していた。
外側より撮影。高さ5m位の防潮堤はクリアされた。
ここの岸壁も残念ながら地盤沈下の影響で、今の時間帯は海面下に沈んでいる。
八大龍神の石碑を見つけた。
釣り客がいたので、少し話をした。仙台からヤリイカを釣りに来たとのこと。岸壁にクルマを置いておくと浸かってしまうので、すこし高い所に駐車されている。
しかし、放射能汚染は釣りにも暗い影を落としている。宮城県の亘理では、釣り船の客がほとんどいないとか・・・

岬を回る林道に踏み出す。T副技監の話では、落石があってクルマの通行に支障があるとのことだったので、引き返すこと前提で前に進む。しかし、本当に絶景である。もし、四日市にこの道があったら、週末は大渋滞間違いなし。
途中、尾根沿いの両側に海を眺められる場所に出る。前と左右を確認しなければならず、忙しい。
切り通しに差し掛かり、両側から少しずつ崩れているために道幅が狭くなっていたが、何とかクリアできた。
木々の間から望む海
いくばくか進んだところで、朽ちた鳥居を見つけた。参道が続いているようなので、クルマを止めて歩いてみる。
遠くに灯台が見える。この道はたぶん灯台まで続いているはずだ。
1kmほど歩いただろうか。コンクリートの階段を上ると、首崎(こうべさき)灯台についた。
首崎の由来は、蝦夷の酋長(昔でいうところのおそらく鬼)の首が流れ着いた場所だから。
タイル張りの美しい灯台
日本離れした絶景
崎浜で見かけた釣り船
日が傾いてきたのでクルマに戻るが、いかんせん体力が低下しており、汗びっしょりになっている。
暗くなった林道を抜けると、コンクリートの建物が何棟か建っている場所についた。北里大学だ。
学生は全員関東に退避しており、無人のはずだが、校舎には灯がともっていた。研究者だろうか・・・
引続き吉浜へ向かう。最近できた仮橋を探すが、暗いので迷うが何とかたどり着く。

吉浜は、明治三陸津波で200名以上の犠牲者を出す事態となり、その後集落の高所移転を進めたことにより、犠牲となられた方は、昭和三陸津波で17名、東日本大震災では1名となった。(行方不明含む)
浜に近い平地は、田や畑として利用されている。ここに市街地があれば、あらゆる面で便利だっただろう。しかし、いつか来る津波に備えて、吉浜の人々は高所に住むことを選択した。

今行われている街づくりは、今答えを出すことができない。未来人がその答えを受け入れることになる。吉浜で導かれた答えは、大正解と言わざるを得ない。その伝説ともいえる吉浜を、満月が照らしていた。
夏虫のお湯っこに向かい、熱めの風呂に入った後、いつもの定番ひっつみを食べる。
豆腐がうれしい
マイヤ大船渡インター店で朝御飯を買う。一人で買い物している男性が目につくのは、復興の作業できているのだろうか。それとも、あの日の出来事が理由なのだろうか・・・